否定も肯定もされない宙ぶらりんの状態を好まない人

 他者の意見を聞くとき、しつこく「YES」「NO」を求めてくる人がいる。相手からそれが引き出せないと分かると、その時点で聞く気を失う人がいる。

 もし自分を否定してくるなら、その人は自分が相手を攻撃する口実を見つけたとばかりに喜ぶ。その人は攻撃することが好きなのだ。だから、自分の存在や人格、信念、持論を否定する言葉を好むのである。
 もし自分を肯定してくるなら、その人は自分が相手に共感する理由を見つけたとばかりに喜ぶ。その人は共感することが好きなのだ。だから、自分の存在や人格、信念、持論を肯定する言葉を好むのである。

 肯定も否定もされないとき、その人は苦虫をかみつぶしたような顔をする。前提を疑ったり、肯定した場合と否定した場合の理屈を両方考える人間は、そういう人にとって「気持ち悪い人間」であり「関わりたくない人間」である。
 それは憎悪とはまた別の方向性を持った嫌悪であり、忌避であり、意図的な無関心である。
「そんなことは知らないし、知りたくもない」

 自分のことを見てくれない人間及び、自分のことを見ても自分のことを判断してくれない人間を拒むしかない人間が一定数いる。人間の関係を、敵対と友好の二種類でしか見れないのだ。中立というものを、本能的に嫌うのだ。

 私は中立である。基本的に何に対しても中立である。賢さと愚かさの間においても中立であるし、善良と邪悪の間においても中立である。
 上品と下品の間においても、できる限り中立であろうと欲する。

 なぜ中立であろうとするのか? と問われても私はうまく答えられない。もし私が、自分が中立であることを忘れるならば、こう答えるかもしれないが。
「理性とは、中立を指向するものだから」
 しかし、自分が理性的であることを主張してしまった時点で、その人は理性の側に立っているから、その中立性を損なってしまう。

 私は先ほど自分が中立であると答えたが「中立とは、どの党派にも属さないということである」という意味であるのならば、私は自分が中立であると言った時点で「中立という党派」が生み出されてしまうから、自己矛盾に陥ってしまう。

 まぁどうでもいいことだ。結局のところ中立というのは、誰かから見た時「敵でも味方でもないやつ」ということであり、実際に私がどんな性格であるかとか、何を信じているかということは重要ではないのだ。

 言ってしまえば私が基本的に他者に対して中立である理由は、その相手の仲間にも敵にもなりたくないからなのだ。味方にも敵にもふさわしくない人間に対しては「中立であるしかない」のだ。

 相手がどれだけ気持ち悪くても、いや、気持ち悪いからこそ、敵として倒すことすら、自分の手が汚れて、気分が悪くなってしまうから、私は、他者に対して絶望的なほどに中立なのである。

 おそらくこれを書いている私という人間も、ほとんどの他者にとっては「中立であるしかない」のだと思う。つまり私は「気持ち悪いので、肯定も否定もしたくない」存在として見られているのではないか、と私は思っている。

 それでいいのだ。私は他者の中立な立場を好んでいよう。自分に対する無関心を肯定しよう。

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