私は直感で語る

 私はほとんど自分の直観の根拠を示さない。自分の意見を支持するようなデータや他の人の意見を持ち出さない。

 なぜかと言えば単純、私は誠実でありたいからだ。

 私が「こうだ」と思ったとき、私はまずそれを疑う。疑ったうえでその立場を取るなら、私はその時点で、その立場を覆すつもりはないのだ。
 つまり、その状況で持ち出す「データ」や「参考文献」は全て、私のその持論を援護するための道具でしかなくなっているのだ。
 自分が正しいかどうかも分からないことを、自分の直感以上のものとして扱うことは、不誠実だと思っているのだ。
 関係のない他者の意見によって、自分の論を必要以上に強くしたくないのだ。

 私は常に自分が間違っているということを前提に考えている。論理的な補強を施したところで、元となった直感自体は変化しないので、それ自体が元々正しければ、その論理的な補強があろうがなかろうが正しいし、それ自体が元々誤りであれば、論理的な補強によってそれがどれだけ反論が難しくなったところで、やはり誤りなのである。
(論理には全て土台が必要であり、土台自体が致命的な誤りを含んでいることは多々ある)
(別の土台から出発した論理がある地点で一致していたとしても、それは偶然であると考えた方がいい。そこに必然を見出すと、その後のそれぞれの答えの食い違いが、人の頭を意味もなく混乱させる)

 それに、私は自分の意見を人に押し付けたいとはあまり思ってない。
 論拠やデータが欲しいなら、自分で調べればいいと思っているタイプの人間なのだ。

 たとえば私が「日本での自殺者総数は毎年だいたい二万人」と言ったとしよう。データは、このご時世調べればすぐに出てくる。私がそこに貼り付ける必要はないし、なんだかそれは押しつけがましい、というわけだ。

 私は基本的に、論文を読んでいる時でさえ、引用文献が明記されている場合でさえ、疑う。というか自分で調べてると、時々そのデータ自体がかなり恣意的なものであることに気づくこともある。

 私は、論理的な補強をほとんど信用していないから、自分が信用していない手法にわざわざ従ったりしない。

 論理的に正しいことが、必ずしも現実に即しているわけじゃない。反論し難い論ほど、誤っていた時の危険は大きい。

 私は、私の直感をできる限りそのままの形で語る。それが誤りであったとしても、それが直感である限りは何の問題もない。それは、簡単に覆されていいものだから。

 論理によって本来関係のないものと持論を結びつけると、その問題は意味もなく複雑になる。それは美しくない。(この美しくないというのも直感的な感覚である。論理はシンプルであるほど美しい)

 
 こんなことを言うのもなんだが、私は「自分が間違っていると思っていること」を他人に信じさせることができる。詐欺師の才能がある、というわけだ。
 だからこそ、私は誠実さを重んじる。過度と言えるほど、私は誠実さを重んじる。

 私は、ほとんどの嘘に説得力を持たせることができる。
 だからこそ、私は必要以上に自分の意見に説得力を持たせないようにしている。

 私は直感で語る。それを美徳とする。

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