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優しい「自己中心的」人生について

「自己中心的」というと、悪口レパートリーの代表格だ。中学悪口力検定があるなら、頻出単語として、単語帳の12ページ目あたりに載っているだろう。

利他的な行動は美徳とされる。うん、「誰かのため」は確かに美しい。その反面、利己的であることは「悪」とされてしまう。

▶︎罪悪感を払拭しようと、無理をして「人助け」をしていると、無理をしているので疲れていく。

▶︎疲れてしまうと、「人助け」をする余裕がなくなる。結果的に「利己的」になり、自責によって、自己肯定感が失われていく。

これは「自己中心的」への誤認によって導びかれる負のスパイラルだ。

そうならないためには、「自己中心的」への理解を深め、正しい「自己中心的」人生を送ることが、今の「優しい」日本人には必要だと考える。

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「自己中心的」とは

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「自己中心的」とは、人間の特徴である。

なぜなら、自己の体調や気分、あるいは経験や学習によって、見え方がガラッと変わる世界に生きているのが、人間だからだ。

にもかかわらず「自己中心的」であることを批判してしまうのは、自己を批判するようなもので、あまり賢明とは言えない。

だからといい、開き直って「自分」のことばかりに意識を向けていると、社会では「自己中心的」と悪評を受け、不利な立場になるだろう。

では、どうしたらいいだろう。

「美しく」あることよりも、「正しく」あることを優先するのだ。

「ひとのため」に生きた方が「美しい」が、完全に人のために生きることは構造上「無理」である。「無理」な設計では、その内どこかで歪みが生じ、脆弱な存在となる。丈夫な建築物は、必ず正確な設計と施工によって出来ている。

この場合の正しさとは、「ひとは自己中心的」と「社会では誰かのための行いに価値がある」を両立させる、「余力で誰かのための行いをするが、そこには『自分のため』を含む」認識だ。

たとえ、ボランティア活動であれ、環境保護活動であれ、「自己中心的」行動である事実は変わらない。それら「立派な」活動をしている人とそうでない人に優劣はない。

どんな生き方をしようが、「自己中心的」人生であることを認めることが、「正しい」人生設計である。

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立ち塞がる「優しさ」という名の美しさ

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しかし、それでも、「誰かのための人生」でありたいと願う人もいるかもしれない。

きっと「優しい」からだ。もしくは、「優しい自分でありたい」なんてこともあるかもしれない。

「優しさ」は、ひとを救う。ぼくはひとの「優しさ」に救われて、こうして生きている。「優しい」文章を書くひとを尊敬する。

だけど、その気持ちは「自己中心的」人生を拒否し、自分を苦しめてしまうこともある。優しい人が自己犠牲によって苦しむ。そんなことがあっていいはずがない。

優しさは「自己中心的」であってもいいのではないだろうか。

自分には優しくない「優しさ」は、持続性がない。誰かに優しく、自分にはもっと優しく、それが人間にできる最大限の「優しさ」だと思う。少なくとも、ぼくはそうだ。

「自分が生き残るため」にたくさんのエネルギーを摂り、「自分が生き残るため」に強くなり、「自分が生き残るため」に周りにも食糧を分け与え、狩りを教える。

「優しさ」は、「自己中心的」人生にもあり得るのだ。

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