見出し画像

逃避の先にあるもの

私は今日、逃げてしまった。
挑戦しようと自分で決めたことに対して"逃げた"
大きな環境の変化を伴う挑戦だった。
約5ヶ月の半引きこもり状態から放浪者のような生活にシフトチェンジして、生きていくという難易度高めの挑戦。5ヶ月前は同じことをしてた。

だからまたできると思ってたけど、鬱になってから治療をちゃんとしなかったせいか、その変化に耐えられる体も心も実は持ち合わせて無かった…。それに気づいたのは高速バスが出る2時間前ほどのことだった。


ねぇ、逃げるってどんな印象がある?
人生の大事な分岐点になる時においての"逃げ"のこと。

私は軽い気持ちで取り止め、逃げたのではなく
自分の体調と未来を考えての"逃げ"だった。
それでも根性論や精神論が根付いてる社会ではその逃げさえも甘えとされる考えが普遍的に存在する。

どちらかというと、私も根性論を推奨している部分がある人間なのである程度の覚悟や耐性がないといつまで経っても克服できないだろうと自分に厳しい判断をして、今日のことを振り返る。

こだわりと必然回避

私は常日頃から色んな場面から逃げてしまっている。嫌いな地元の外に出て買い物をすることや、気分転換の為の散歩、部屋では近所に存在を知られたくないが故に、なるべく声を潜めて生きている。

目標や目的がなければ私はその場所に行くことや何かをすることすらも困難で、なんでも"意味付け"しないと動けないつまらない人間に成り果ててしまった。
ここじゃない場所では解放されるのに、地元という呪縛が私をそうさせるのかもしれない。

気分の変動と挑戦できそうな日

私はずっと"無理"をしてきた。
人からそう言われてもなかなか理解できずにいた。
この日に行かなければこの日にこれをしなければ、ずっと強迫観念で生きてきて踏ん張っては歯を食いしばってなんとか辛さに耐えてきたけど、それをしていくうちに私は壊れてしまった。

なのにまた希望を夢見て、今日は行けるかも今日はなんとかなるかも、この少しの気分の波に乗って今までの負積をチャラにできるなんて甘い考えで現実を目の前にすると足が竦む。これを何度も繰り返してきた。

気分の変動や情緒が安定しない私にとっては自分で生活していくこと自体が死活問題で、金銭面の問題や安全圏にいない問題などは二の次であって、メンタル面がなんとかなれば、行動ができて幸せになれるはずだという謎の確信があるから、私は安定したメンタルが欲しいとずっと思っている。仕事を復帰するためのバスのキャンセル料だけでもう4000円は使ってしまった。4回挑戦しようとして4回とも断念した。挑戦を辞めるだけで余計な出費がかかるのも本当に悔しい。

さいごに

私の経験を踏まえて本当に嫌なら逃げていいんだよってことです。私は逃げないと多分死ぬくらいまでいく人間なので、割と人よりも逃げてしまっていますが、立ち向かえる勇気だけが賞賛されるものでなく、体調や心身のバランスも含めて生きるということなので、プライドや見栄だけで息ができるほどこの世はファンタジーではないことを最近知りました。

できると確信した時は快活に挑戦して
無理だと思ったら逃げてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?