運動会の思い出

先日、現場の隣にある小学校で運動会が開催されていた。

季節柄、気温が高くてもジメジメしてないので、この日も絶好の運動会日和だった。

頑張る子どもたちに必死で声援を送る保護者たち。

盛り上げ役の先生の場内アナウンスにも熱が入る。

休憩中にボーっと運動会を眺めながら、ワシが子どものころの運動会に思いを巡らせてみた。

ワシは今から三十数年前、17歳の年に青森から横須賀に出てきたので、それ以前のこの辺りの運動会事情については何も知らないが、

ワシが田舎で経験した小学校の運動会といえば、保護者らの多くがグランドの外周にレジャーシートやゴザを広げて、御重に詰めた料理と酒で盛り上がるのが常だった。

朝早くから場所取りをする熱心な保護者もいて、まるでお花見みたいなノリだった。

運動会より宴会、まさに花より団子。

お昼になると、主役の子どもたちは、それぞれ保護者の待つ宴会場(笑)へ行き、しっかりと昼メシを食い、オレンジジュースで水分補給する傍で、

酒を補給して真っ赤な顔になった父親や近所のオジサンたちにイジられて午後の競技に備えるのだ。

あの時代の運動会は日曜日に開催されるのが当たり前だったので、保護者だけでなく近隣の人々も一緒に運動会を盛り上げてくれた。

これが地域性だったのか、この時代ならではのことだったのかは知らないけれど、今どきではありえない光景だったことはワシにもわかる。

個人的な事情でいえば、前回の記事で少し触れた通り、ワシはバアさんと暮らしており、

しかもバアさんは昼間レストランで仕事をしていたので、日曜日で給食のない運動会の日は毎年のように弁当と水筒だけ持たされて学校へ行ったものだ。

グランドの宴会場(笑)には、当然ワシの戻る場所はなく、お昼は教室へ戻りひとりで過ごすのが恒例だった。

先生たちが気を遣ってくれていたかといえば、全校児童が800人を超えてる学校の運動会を切り盛りしとる先生方にそんな余裕があったとは到底思えん。

こういう場合、他人様に気を遣ってもらう方がよっぽど惨めだし、ワシの性格上、一度甘えてしまうと調子に乗ってしまう可能性すらあったと思うので、これはこれでよかったはずだ。

そんな恒例行事に異変が起きたのは、忘れもしない5年生の時だった。

午前中のプログラムが終わり、弁当と水筒を持ってフラフラと教室に戻ったら、何と先客がおるではないか。

「どうしたんだお前」と声をかけると、どうやら運動会の前日に仙台に住むおじいちゃんが倒れて朝一番で母親が帰省したとか、父親は出張先からこっちに向かってるけど運動会には間に合わないとか、そんなことを聞いた憶えがある。

この子は、4年生の時に仙台から転校してきた同じクラスの女子で、うちの学校の運動会は2回目。

お母さんに弁当だけ持たされて学校に来たのはいいが、両親が来られないことを先生に伝えると「それなら毎年しぶちんが教室にいるから一緒にいればいいんじゃね?」って言われたらしい。

ワシは子守りか。

この子は、スポーツは何でもこなし、勉強もよく出来て、笑顔がとてもキュートで、とにかく明るい安村だ。

そんな子なので友だちも多く、モテてたっぽいので分不相応にも惚れてるバカガキがいたかも知れない。

教室に話を戻そう。

さて、運動会の日に珍しく、お昼休みを同級生女子と過ごすことになったわけだが、ワシは煮物と漬物がメインの弁当を見られるのが何となく恥ずかしかった。

何せ年寄りが作る弁当なので、目の前の女子が持ってきた彩りも華やかな可愛らしい弁当(果物まであった)とは全く正反対だ。

お母さん、朝からバタバタしてただろうによくやったんだなあ、なんて今になって親の有り難みを羨んでみる。

「これ、美味しそうだね」と言われて、煮物と唐揚げを取り替えっこしたり、お互いの身の上話で盛り上がったり、将来が絶望的なワシに夢をきかせてくれたりして、

それまで会話らしい会話なんかしたこともなかったのに、この短いお昼休みの間に一気に距離が縮まった思いがしたものだ。

「そうだ!今度うちに遊びに来なよ!」

彼女はそう言ってワシの肩を叩いたのだった。

なんだかワシの方が子守りされてたみたいや。

ところが、別れは突然やってくる。

彼女は、その年の一学期を以て故郷の仙台に帰ることになった。

おじいちゃんの按配があまりよくなく、婿養子のお父さんが家業を継ぐことになったらしい。

終業式の日も彼女はいつもの明るい笑顔で女子たちと別れを惜しんでいた。

「しぶちんにも手紙書くね!元気でね!」

それが彼女の最後の言葉だった。

あれから40年。

なつきちゃん。

手紙を一度もくれなかったけど、どういうことですか?