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ぶらんこ乗り

工房からの風では「文庫テント」という企画テントを設けました。
担当いただいたのは、陶芸作家の松塚裕子さんと彫金作家の長野麻紀子さん(Anima uni)。

今日は、松塚裕子さんから寄せられた文章(松塚さんのブログ)から、許可をいただき、一部を転載させていただいて綴りますね。

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いしいしんじさんの、ぶらんこ乗りにでてくる一説がぽかっとうかんでくる。
サーカスのぶらんこ乗りの夫婦の話のところ。

―わたしたちはずっと手をにぎってることはできませんのね
―ぶらんこのりだからな

ずっとゆれているのがうんめいさ。けどどうだい、すこしだけでもこうしておたがいにいのちがけで手をつなげるのは、ほかでもない、すてきなこととおもうんだよ

・・・

工房からの風がおわって、一週間。
思うことはたくさんあったはずなのに、思考が宙をさまよったまま、なかなか言葉がでてこなかった。
洗濯だの掃除だの制作だの寝かしつけだのをとにかくめいいっぱい繰り返す日々のなかで、昨日あたりほんとうにぽかっと思い出した。
ああ、そうだよなあ、こういうことだよなあ、と。
ようやくすこしすっきりする。
いつまでもずっと、てのは何事においても絶対にない。
ほんとうに手をつなぎたいときに、もうその手はなくなっていることだってある。
つなぎたいと思う手があるのならば、すこしの時間であってもいい、しっかり握っていないと。
ぶらんこ乗りは、生きているってこと、そのものだよなと思う。

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たとえばそれが「工房からの風」という場の出来事であれば、
出会って真剣に関わりたい、と思ったのなら、しっかり手を握ってみる。
ずっと握っていることなんてできないのだから、握るのなら真剣に。

人と出会うって、生きているって、こういうことじゃないかな。
と松塚さんの文章から気づかされる。

惜しみなく。
すべてにそれはできないのかもしれないけれど、そうせざるをえないことと巡り合えたとしたら、迷わず惜しみなくできるといい。
幸せの濃さってそういうことだ。

けちにならない。
そう、多くのすばらしいものづくりに共通するのは、けちじゃないということ。
だからこそ、人の心に響く、打つものを作り出せるのではないか。
そんなことを思うのでした。

出展作家の中で、もし悔いが残る人がいたとしたら、あなたは惜しみなくま向かったでしょうか。
そう問うたとしたら、それは厳しすぎるでしょうか。
小さな反省などの前に、小さなけちにならずに、惜しみなく向かったらいいのだと、愛を持って伝えたい。

たくさんの手ごたえと感謝のメールの中に、やりきれなかったことを悔いるものも交じります。
いや、それ以前に、無事戻りました、とひとこと返せない作家のことを想います。
今回はすでに終わったこと。
でも、ぜひこれからの時間の中で、作る仕事を選んだことを、しっかりと握って進んでほしいと思っています。

・・と、えらそうなことを書きましたけれど、私自身反省がいっぱい。
惜しみなくやれた、といいきれることもあるけれど、やれなかったなぁと思うことも多々。
特に、出会った49組の作家の想いをちゃんと握りしめられたか、といえばとても全員には出来なかった。
「それはしかたないんじゃない、当然だよ」
と言ってくれる声が聞こえてくるけれど、そうじゃないって、松塚さんの文章、いしいしんじさんの文章を読んで思う。

すこしだけでもこうして
おたがいにいのちがけで手をつなげるのは、ほかでもない、
すてきなこととおもうんだよ

こんな思いを底において、爽やかに次に向かって進みたいと思うのです。

2018/10/27 工房からの風director's voice初出 2019/06/28加筆修正

上の文章は、ちょうど昨年の工房からの風が終わったあとのもの。
今日は、今年度の出展作家へ出展ブースの提案などの郵便物を投函した日。あと4か月後には50組の作家が、それぞれの想いを抱えることになっています。ぜひ、ぜひに小さな反省などをすることにならずに、けちにならず、惜しみなくま向かってほしいと、あらためて愛を持って伝えたいと思い、ここに綴ります。

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