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じぶん物語vol.1〜すべてが変わる日〜

2011年3月10日
東京で行われた、旅のイベントに
仙台から足を運びほくほくしながら
夜通し仙台へと戻った。

きょうから、だったか
あしたから、だったか
忘れてしまったが、
せかいが、かわる。というようなことを
イベントでは何度もいっていた。

世界一周が当時夢だったわたしにとって
世界一周にいった人や目指している人たちの
空気感にふれて、そのコトバが
そんな感じがする。と思わずにはいられなかった。

朝、仙台について
午後から児童養護施設での調理のしごと。
家には帰らず、時間をつぶしてそのまんま
いく予定だった。

月に数回
いっては浜辺でボーっとすごす
海へいこうか。ともおもったけれど
あまりゆっくりもできなそうだったので
施設の近くの図書館へいった。

ふと、CDを借りよう。と
おもいCDコーナーへいくと
ジョン・レノンの【IMAGINE】が
目にはいった。

ちゃんとは
知らなかったけれど
せかいの平和をねがうすてきな
うたなんだろうな。とうっすらおもい
借りて車のオーディオできいた。

中高と陸上をバリバリとやって
卒業後、陸上の栄養管理をするのをきっかけに
ごはんをつくることをはじめて
食に興味をもったわたしは
地元の調理師学校の製菓、調理のコースを
卒業後、埼玉の短大で栄養士の勉強をした。

そんなことを勉強しつつも、
動物を食すことに対する疑問や
環境を破壊しながら生産される農法に疑問をもち
人間もにんげん以外のいきものも、地球も
ハッピーになるごはんはないのだろうか?と
おもったときに出逢った
マクロビオティックをきっかけに
農薬や化学肥料をつかわない農法や自然食に
目覚めた。

だから自然食のお店のおおい
東京での就職だったり
海がすきなので鎌倉や逗子あたりでの
就職を考えたものの
母の「ちかくにいてほしい。」という
期待に応えたくて、仙台での就職をきめた。

調理師や栄養士で就職するといっても
いろんな道がある。
和洋中他レストランとかカフェ
病院、老人施設、幼稚園保育園、学校etc

すこしまえから
わたしはどんなことがしたいんだろう?
そうおもったときに
自然食の道に進みたいというのもありつつ
子どもの頃から年下の子どもたちが好きだったわたしは
子どもたちの食に携わりたい。というおもいを
じぶんのなかに見つけたときに
児童養護施設という存在を知った。

親と経済的なことや暴力など
いろんな理由があって一緒に暮らせない
子どもたちが生活する施設だ。

児童養護施設で食に携わるといっても
わたしの当時知った限りでは
おおきくふたつのケースがあるみたいで
教員の免許や保育士の免許をもった人が
子どもたちと共に暮らしながら
家庭のように数人に別れた部屋のキッチンで
ごはんをつくるタイプと
大きな調理室で調理師によってつくられて
食堂でたべるタイプと
それをかけ合わせたところもあるようだった。

ちょうど
わたしは当時の数年前にできた
栄養教諭の免許の取得予定もあって
子どもたちと共に暮らしお世話しながら
というタイプにも応募することができた。

母にあさみは
感情移入しすぎて辞められなくなるから
やめたほうがいいよ。といわれながら
面接を受けたが、結果おちてしまった。

なんでそんな必死になって
就職活動をするのかわからなかった
わたしはピンとくるところだけ
受けつつ、卒業間近の1月まで就職先がきまっていなかった。

たった一度だけいった
ハローワークで、地元仙台の
児童養護施設の調理師の募集をみつけて
その時点で決まった!と
なぞの確信をもって面接をし、予想通り
受かったのであった。

親からの愛を感じられなかった
子どもたちに、じぶんという存在やごはんを
とおして、なにかあたたかなものを渡せたら。
コトバにすると恥ずかしいので
あまり口にしたことがなかったけれど
そんな想いで勤めはじめた
その施設で年に一度のおおきなイベントが
3月11日に開催されるはずだった。


なまえは忘れてしまったけれど
18歳になると施設を卒業することになっていて
その卒業する人をお祝いする催しを
食堂で食卓をメインでの催しだ。

栄養士さんがひとり
調理師が3人の職場で
いつもは交代でまわすのだけど
この日は全員フル動員。

IMAGINEをきいた後、
お祝いのごはんづくりのために
調理場にたった。

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