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写真について、この頃思うコト

この頃、割と写真に濃密に接しているらしく
色々とモヤモヤしている事を、断片的ではあるけれど書いてみた。

芸術的と言われるらしい写真と、そうではない写真て何なのかとか
スマホの進化で「誰でも写真家」時代が来ている問題とか
撮るのは簡単(当然そうで無いのもある)なのに、能書きを垂れる問題とか
写真を始めた女子に、しつこく教えたがるオジサン問題とか
妙にハシャギまわる、写真愛好家グループ問題とか
まあ、色々と悩ましいコトが多いかな。


コンセプトきっちりがあって、テーマ性も感じられる写真が
芸術的かと言うと、果たしてそうなのかと思う時がある。
見る側の問題なのかも知れないけれど、凡庸な物はやはりつまらない。
撮す側は、何かを感じてシャッターを押す訳だけれど
その何かが伝わらない写真はどうなのだろうか?
立派なコンセプト、テーマを読まないと理解出来ない写真は
果たして、何かを表現している写真と言えるのだろうか?
視覚化されているだけで、写真なのかもしれないけれど
伝えること、伝わることを拒絶する写真は、見ていて疲れる。

写真の美しさは、花・小動物・風景・抽象などジャンルは関係ないと思うし
そして、その美しさの本質は伝わる力だと思っている。
テーマ・構図・色彩・陰影・時間性•空間性•空気感など撮る側が伝えようとしたことが
見る側に伝わった時に、写真展示は成立すると思う。
「見る側のことを意識しないのが芸術」と思うのは勝手であるけれど
見る人達と対話のできない写真は、存在価値は希薄に思える。

誰でも簡単に写真が撮れるようになって、良いと思う反面
もっと写真の評価を、きちっとしていかなければならないと思う。
仲間同士で褒め合うのも、楽しいのだろうけれど
手芸レベル(それはそれで価値はあるけれど)になってしまうように思う。
お楽しみでやっている人の写真が、芸術的では無いとは思わないし
芸術的と言われる写真を撮っている人の作品が、果たしてそうなのか…
「芸術的」という言葉の呪縛から逃れられていないと思う時もある。
芸術性はコンセプト・テーマがきちっとしていれば
成立という訳ではないと思うのだけれど、作家の意識の問題なのか?

写真の世界が多様化、平易化している中で
写真を評論・評価する人よりも
整理整頓してナビゲートしてくれる人がいたら良いなと思う。
評価は見た人がすればいいわけで
権威を欲しい人は別として、評論家の評価は必要ないところまで
写真の世界は、日常になっている様に思える。

メディア(中間性)という言葉の、意味通りの役割を
スマホやタブレットの画面が果たして、そして完結する。
プリントメディア自体は、古典的な趣味になりつつあるのかも知れない。
印画するという事から、画面で見る事の方が多い時代の中で
写真を撮り続け、プリントして展示する事の意味は何なのか?
インスタグラムの延長線上にある写真との違いはあるのか?

意志、概念、思想は見えにくいけれど
かつて写真にはそれを伝える力があった様に思う。
写真が身近になった分だけ、それらは希薄になったのか?
時代が、写真にそれらを必要としていないのかも知れない。
選択する力が衰えて、単に見えづらくなってだけなのか?
選択肢を見極める、情報リテラシー能力は必須なっている。

芸術性と言う言葉だけで、押し通せた時代は終わり
スマホ世代にも適応できる柔軟性があれば
違う展開があるかも知れないけれど、それは次世代の役割なのだろう。
過渡期を通り越して衰退期なのか、プリントメディアは岐路にある様に思える。
消えはしないとは思うけれど。

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