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SMAP「世界に一つだけの花」の「店先に並んだ花」にすらなれなかった話。

緒言

 私が7歳の時、親にねだってCDを1つレンタルしてもらった。それがSMAP「世界に一つだけの花」である。慣れない中、当時の脆弱なスペックのPCにMP3データとして取り込み、苦労してMDプレイヤーで持ち運べる形で聴けるようになった時の感動は、よく記憶している。

 今となっては知らない人も多いかもしれないが、当時の歌番組では「カラオケで歌われた曲1位」はほぼ毎年毎月この曲が1位となっていた。稀代のメガヒット曲であり、それだけ国民の理解を得ていたことは間違いないと思われる。

 当然、当時の私もこの曲のテーマに共感していた1人であった。多様性や、相互理解など、決して日向に咲く力強い存在ではなかった幼い少年を鼓舞するには十分な力があった。

 昨今はYouTubeで昔の音楽を聴くハードルも下がり、当時の思い出を振り返りながらこの曲を聴く機会を得た。

 しかし、当時感じていた多様性や相互理解のようなメッセージには違和感を覚えた。むしろ当時から見た未来である現在の自分は、より状況が険しくなったように感じられた。子供のころの私は、花屋に並べる花になれるものと信じて疑わなかったが、実際には花屋に並べる自身など到底ないためである。

「花屋の店先」に並ぶことができる花はすべて一流

 「世界に一つだけの花」の曲中の歌詞に対して、「花屋に並んでる花」は既に一流であると私は思う。一流の中の差異なら、それは認め合うこともできよう。

 この曲が現代にまでは通じなくなったと感じた理由には心当たりがある。それは「花屋の店先に並ぶことができなかった有象無象へのアンサーが存在していないから」である。かくあるテーマで本当にクローズアップされるべきであり、現代の日本で共感を得る最大多数派なのは、花屋の店の脇に勝手に生い茂る雑草や、花壇に植えられた美しい花を横目に刈り取られる運命にあるぺんぺん草なのだから。

解決案は「最も自分が輝く場所を探そう」「名脇役になろう」

このまま終わっては、読んでいただいた皆様が重い気持ちになってブラウザバックすることになってしまう。ではどんな言葉なら現代に刺さるかを、無双留年ボルバルザークなりに考察する。

1つ目「最も自分が輝く場所を探そう」

 花屋もピンからキリまである。青山や表参道のおしゃれな花屋から、識字率がアフリカ並みに低い田舎の潰れかけの花屋まで存在する。花屋に並ぶことに醜形恐怖症のように拘るくらいなら、夕日で照らされていい感じに美しく見える場所にでも行けばいい。

 河川敷でも、建設現場でも、雪山で球根を経てから咲く花でもよい。1人でも感動させることができれば丸儲け。写真を撮ってもらって、Instagramにでも投稿されれば我が世の春である。

2つ目「名脇役になろう」


 音楽がめちゃくちゃ好きで、ミュージシャンになろうとして人生棒に振った奴を知っている。漫画がめちゃくちゃ好きで、就活で集英社受けて最終面接で落ちた奴も知っている。

 めちゃくちゃ好きな趣味やコンテンツの花形を目指して努力して、それでも夢破れていくやつがごまんといる。○○が好きだ、○○の事のために苦労するならどんな苦労も厭わない。物好きのバトルロワイヤルと、ダメな奴の敗者復活戦で成り立っているのが、現実の社会である。この二つしかないのだ。

 確実に言えるのは、あなたの好きな事や、それで培われたなにかは、大好きなものを扱う会社の経営企画部の方策や、コンサル会社の提案や、広告代理店の宣伝ですら辿り着くことができない可能性を秘めていることがある。

 ミュージシャンとして飯が食えないのなら、ミュージシャンを輝かせる仕事を、たとえば好きなCDやレコードを解説するYoutuberでもいい、タワレコでめちゃくちゃ造詣の深いPOPを作成す仕事でもいいから始めてほしい。積み上げてきた知識や愚直さの中に、お金に換えられない素晴らしい何かがあるように私は思う。

結言

バトルロワイヤルと敗者復活戦のどちらでもない、地獄の釜の底で私は待ってます。

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