静寂のときを守る。沈黙のうちに、ひとの思考は目まぐるしく駆け巡っている。多くを想うが、空気に波打たせることを拒む。想いが募るほど、言葉を形作る声は出てこない。心が動くとき、その内には音にならない声がある。強張る心は、ふとしたきっかけの涙で溶ける。ただ溶け始めるまでは、想いが大きいほど時間がかかる。沈黙には愛が宿る。冷え切った仲での無言とは違う。静寂も沈黙も、ひとの容量を超えた出来事からの解放を意味する静謐に至るまで、そっと佇む。
静謐とはなにか。そこには悟りも漂う。知らなかった感情に出会う衝撃はひとを耕すが、度を超えれば疲弊する。動きが多くなるほど、情報処理に振り回される。情報が過多になれば、ひとは思考を止めてゆく。自己のなかでの思考は、自らの「音にならない声」と向き合う時間でもある。他者が他者に与え得ることの出来る愛ある沈黙とは、その時間に寄り添うことではないか。パンクしかけた自己の心に、ひとはなぜだかなかなか自分では気がつけない。気がつかないから助けも求めない。他者と向き合う時間には、自分と相手との時間がある。相手から提供された沈黙は、不思議なことに自分では気がつけなかった内なる声を聴く時間に変わりゆく。その時間を経て、ひとつ心を耕したとき、ひとは静謐な時空を纏う。そのとき寄り添ってくれた沈黙に、経験深い奥行きを見るようになる。
声として発するものは、より真実な心でありたい。出せないときは出さなくて良い。選び出せたら、ぽつぽつ出してみたら良い。それを「待つ」ということもまた、限りない優しさである。声高で扇動的なものは勢いはあるが、そこに自分の思考-内なる声は本当の意味で共感できているだろうか。若いほど渇望や焦りがあったとしても、ひとそれぞれの歩みのなかに、遅いも速いもない。沈黙を与えてくれるひと、待つことを教えてくれるひと、そのような滋味深い大人は素敵だと思う。
静寂のときを守る。音になる声が出てくるまで、ただ寄り添うように-
クラシック音楽を届け、伝え続けていくことが夢です。これまで頂いたものは人道支援寄付金(ADRA、UNICEF、日本赤十字社)に充てさせて頂きました。今後とも宜しくお願いします。 深貝理紗子 https://risakofukagai-official.jimdofree.com/