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フォトグラメトリをした3Dモデルから意味を見出したい。 ー道標をデジタル拓本 その1ー

 私はフォトグラメトリで生成した3Dモデルを単に愛でるのも好きですが、その3Dモデルから何らかの意味を見出したいとも思っています。このシリーズでは私が作成した3Dモデルのうち、石塔や石仏、石碑の3Dモデルから私なりに読み取れたこと、そこから仮定したことを綴っていきたいと思います。

 このシリーズの1回目では「廃仏毀釈」を取り上げました(その1その2その3その4)。そこそこ重いテーマでしたのでnote記事の執筆が大変になり、最後には結論を急ぐあまり内容が雑になってしまいました。その反省を踏まえて今後は執筆が重荷にならないような書き方をしたいと思います。

 今回のテーマは「道標をデジタル拓本」です


■はじめに

 このテーマでやりたいことは「道標をデジタル拓本」して「古い地図と見比べ」て「何か考えてみる」です。ここでは、私が何かと縁のある東京都西東京市に所在していて、江戸時代などに過去の陸路の道標としての役割を持った石造物をデジタル拓本の対象にしたいと思います。

□西東京市の道標石造物

 「近世以前の土木・産業遺産」というサイトを運営されている方がいらっしゃいました。こちらでは近世以前の時代に造立、建設などされた全国の街道、水運、農業、漁業、鉱山、防災、水道、測量、防衛の役割を果たした文化財、遺構、建築物などをまとめられています。全国です、すごいです。

 その中に東京都西東京市に所在する石造物等の一覧もあります。上水道、桜の木、倉庫がいくつか記載されていますが、27の遺構等うち23が道標の石造物となっています。ここでは、こちらの一覧に記載された道標の石造物を対象にデジタル拓本をしていきたいと思っています。

■西東京市谷戸2丁目の地蔵道標

□まずは外観

 このシリーズの初回の道標は西東京市谷戸2丁目に造立されている地蔵道標です。下の写真はその外観です。歩道の通行の邪魔にならないように十分な広さの専用のスペースが設けられていて、そこに祠が立てられています(上)。祠のなかには地蔵道標の石造物があります(下)。祠には千羽鶴の束が何本も奉納されていました。このことから、現代でもこの石造物が地域の方々に守られていることが窺えます。祠の外観の3DモデルをScanniverseのSpaltモードで作成した動画はこちらです。

西東京市谷戸2丁目の地蔵道標を概観

□デジタル拓本の結果

 デジタル拓本の結果です。画像は上からテクスチャー付モデル、ソリッドモデル、EDLフィルタ適用モデル、SSAOフィルタ適用モデルです。3Dモデルの作成はRealityCaptureで行い、フィルタの適用と画像出力はCloud Compareを使いました(画像右下のスケールバーはここでは無意味なものですので気にしないでください)。それぞれの画像をクリックして高解像度の画像を開くことができます(別ページとして開きます)。

テクスチャー付モデル
ソリッドモデル
EDLフィルタ適用
SSAOフィルタ適用

 下の図はデジタル拓本をした結果から読み取れる(推定した)刻印文字の内容を示しています。この内容から、この地蔵道標が造立されたのは天明元年、つまり1781年頃で、この石造物のある地区の29人が造立に携わっていて、その代表が下田清右衛門さんだったということが窺えます。「武刕多摩郡田無邑」というのがこの石造物が造立されている地区の名前で、田無村というのは現西東京市田無町でしょうか。そして、下田さんというのは田無村の名主さんだったのだろうと思います。時代は異なりますが、西東京市田無町には養老田碑養老畑碑という石像碑文が残されており、この地区の名主さんである下田半兵衛富宅さんの功績が称えられています。下田家は田無村の代表を長く務めていたのだろうということも窺えます。

推定した刻印文字

□道標としてみる

 デジタル拓本をした結果から推定した刻印文字が示す内容とそれが示す方角は次のようになると考えています。あわせて私の解釈も示しています。

刻印文字の内容とそれらに対する解釈

 祠に掲示されてる説明書きによると、現在の祠は元の位置から少しだけ離れた場所にあるそうです。説明書きにはおおよその元の位置が記述されていましたので、その記述と古地図を見比べて元の位置の推定を試みました。
 下の図は国際日本文化研究センターが運営する「所蔵地図データベース」から取得したものです。取得にあたっては同センターに相談してnote記事に掲載することについて了解をいただいています。

 この地図の説明の備考欄に「明治13年測量同19年製版 / 7舗から成る。 / (箱題)東京近傍図 / 古地図史料版本による複製」と記されていますので、1880年(明治13年)の測量結果を基にしているものと思います。この地蔵道標の造立時期が1781年頃なので測量まで100年ほど経過していますが、地形はもとより道路ネットワークはそれほど変化していないだろうという仮定で元の位置を推定しています。
 下の図の下辺中央あたりが現在の西武新宿線田無駅北側の地域にあたり、東西方向に青梅街道が走っています。地蔵道標はそこから真北、地図上の上辺中央付近に所在しています。

1880年測量の地図と地蔵道標の所在位置(広域)

 祠の説明書きに記載されている「元の位置」を地理院地図に照らし合わせると下のリンク先の位置になるのではないかと思います。

 そして、この位置を1880年測量の地図と照らし合わせると下の図のようになると考えてます。下の図では赤色の△印で造立位置を、青色の矢印で地蔵道標が示す各方角を図示しています。

1880年測量の地図と地蔵道標の所在位置(広域)

 この古地図をみると南沢道についてはこの道はほぼ直接、南澤村(現東久留米市南沢)に通じていました。分かりやすいですね。しかし、南澤村は現代でも交通の要衝ではなさそうなので、なぜ府中や江戸と並んで「み奈み沢みち」を指し示したのか、ちょっと気になります。当時は何か重要な産業があったのでしょうかね(南沢には六仙公園という公園があるのですが、ここは水源地で縄文時代の遺跡があるようです。古くから人が住んでいる地域だと思われるので、それ故に道標で示されているのでしょうかね)。一方で、他の3方の道は直接目的地に通じているわけではないので、この道標は大まかな方角を示しているだけなのだと思います。そのまま行って別の分岐があったら、そこに別の道標があるなどしたのでしょうかね。しかし、江戸道に至っては、東に向かったすぐの地点で南北にしか通じていない道に行き当たってしまうので、ここであえて江戸道として方角を指すのではなく「一度南下して青梅街道を東へ行け」のような案内の方が良かったのではないかと思いました。。

□何か見出せたか

 タイトルに「フォトグラメトリをした3Dモデルから意味を見出したい」としているので、このシリーズの最後に「見出したこと」を綴りたいと思います、といっても無理矢理ひねり出すので大したことは出てこないと思います。「その1」の西東京市谷戸2丁目の地蔵道標で見出したといいますか、感想はこんなところでしょうか。

  • 養老田・畑碑の下田家は永い間この地域の名主をやってきたんだろうなぁと再認識。

  • 東久留米市南沢は現代ではそれほど交通の要衝じゃなさそうだけどなぜ道標で示されたのだろうという疑問(単純に「分岐点なので清戸村方面の道を間違えないように」ということかも)。

  • 道標が示しているのは大まかな方角なんだろうな、でも、もう少し分かりやすい表示に仕方もあったんじゃないかなという大きな御世話

 記事が長くなってしましました。書き始めるといろんな裏付けをしたくなるので調べたりまとめたり時間がかかって記事も長くなってしまいます。次回はもっと簡単にまとめたいと思います。
 ここまで読んでいただき、ありがとうございました。