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2回目のどう生き(2023/08/1)


2回目見に行ったのは30日なんだけど、今日書きます。
君たちはどう生きるのか!早くパンフレットでないかな。


2回目はなるべく素直に…というか感覚だけで?脳みそで色々考えないようにして、見たいな…という気持ちがあったんだけど、見れたかどうかはわからないや。もうすでにいくつかの感想を読んでしまったので。(解説も一応目を通したけど、なるほど…と感じるところもあるが、「俺の私のジブリ論」の域を出ないものばかりなので解説と思いたくない。それらを解説と称して語る傲岸不遜さが醜すぎる。)

なるたけ印象の感想だけ言いたい。脳を通さないで感じたこと?感触?みたいなの。前のやつは、感覚を無理やり言語化した感じがあって、私の感覚の真ん中って感じではないので。あと分かりやすい記号に終始してしまった。この作品は、左脳を通して見てしまうことがもったいないような気がする。


というわけで行くぞ!





パッチワーク、
描きたいシーンを繋げて物語っぽくしているかんじ、
空想と現実の境目が曖昧、
冒頭の炎に包まれる街、火だるまの人、私はこのシーンすごく好きだな。
今までのジブリになかったリアル調の描画
火の海をかける眞人、炎の熱風で空気が歪んで人も建物も歪んでる。音もぼやんぼやんとしていてて現実感が無い。
ものすごく主観の世界。
このシーンがなんだかわからないけどすごく好きなんだ。作画の凄さは当然として、現実と(客観) と主観(妄想)の世界が混じり合っている感じがすごく好き。

難解と言われているけど、これは難解なのではなくて作者自身が解読してもらいたがってない感じ。分かってもらおうとして描いてない。
感情や記憶や、自身の手触りや好きなもの、悔しい気持ち、諦め、諦めからくる成長?別れ?別れからくる成長?そういう言葉にし辛いものの手触り?感触?雰囲気?をアニメーションで描いてる。
そういうものに適したシチュエーションを繋げている感じ。
夢に近いかも。
宮沢賢治の世界?


地下の世界のターナーみたいな背景。


https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=428
空も海も船もあるのに、どこにも行けない感じ。閉塞感。
凪だから。
画面いっぱいの美術、美術、美術!
好きな人は好きなんだろうけど、私には重すぎる。情報量が多い。
湿気・生きている物のむわっとした臭い。
高畑勲監督は、空想の世界に行くときは空に飛んで行ったけど、宮崎駿監督は地下に潜っていく。
水が多いよな。
高畑勲監督は乾いた印象があるんだけど、宮崎駿監督は湿っぽい感じだ。

眞人、真の人。
死に近い名前。
なんでだろう。

セルフパロディが多い。
風立ちぬ、千と千尋の神隠し、もののけ姫、耳をすませば(の、何か宝石みたいな洞窟を駆けていく描写なかったっけ)、ナウシカ、ラピュタ。

死者の門の先にあった岩の門は何が元ネタなんだろう。黄泉の国につながっているのか?もしここが死者の世界で、セオリー通りなら、飲食をしてはいけないんだけど(死者の国で飲食をしてしまうと完全に黄泉の国の者になってしまい地上には戻れない)、眞人は2回も食べてたし戻ることが出来た。

殺生が出来ない地下の人たち。
地上からきた人がは殺生が出来る。

ヒミ。炎の魔女だ。炎ってどの世界でも「浄化」の意味があるような気がする。ヒミかわいいよね~。美しく、自分を守ってくれる強い少女(母親)か……。

大叔父の元へ向かうための空間がジョルジュ・デ・キリコっぽい?
なんだろう。
他に在りそうな気がするんだけど私の乏しい知識では分からない。
明るい部屋。でも、なんだか最果てって感じがする。エブエブのジョイ・トゥパキが最後のドーナッツを作っていた場所もこんな感じだった。何か元ネタがあるんだろうか。
柱と柱に挟まれた壁の空間。右手が暗くて、左手が異様に明るい。
夜を超えて、石のある場所に行く。ずっと風が吹いてる。

こういったらなんだけど、米津玄師さんの地球儀が一番「君たちはどう生きるか」から発せられているメッセージをきちんと受け取れている感じがする。
ものすごく感受性が豊かで、簡潔な表現の中にぎゅっと詰め込まれている感じ。
この歌詞の感触がなんだか高畑勲監督なんだ…。
おもひでぽろぽろの主題歌は、既存の洋楽を高畑勲監督が翻訳されたものなんだけど…本当に本当に原詩に対しての尊敬があり、尊重し、かつ、当時の日本や作品へのテーマへと昇華させた翻訳になっているのです。私はこれを読んで、ちょっとぞっとしてしまった。
一語一語へのこだわりというか……、違う文化をここまで引き寄せて、かつ、自分のテーマにも添わせることができる力量というか…。
センスと知識、品格、全てを兼ね備えないと行けない領域というか。非凡。

話しがずれた。
地球儀の歌詞は…物語のテーマというよりも、ジブリの過去から今に至るまで、宮崎駿監督の生き方、何に影響され、これまで生きてきたか、そして未来への希望を包括しているようでいて、私はなんだか泣けてきてしまうのだ。
人が一人、生きたということの、葛藤や喜びやままならさや、それでも希望を持ち続けてしまうさがみたいな、そういった生きることの重さと、この歌からは、そこから「もう解放されたんだ」という喜び?虚脱感?肩の力が抜けた感じがする。
ここに出てくる「 私」 は宮崎駿監督のことでもあり、ジブリの事でもあり、いずれ来る私たちの事でもあり、複合的のように思える。
特に私が😢となってしまうのは「僕が愛したあの人は誰も知らないところにいった」の「愛したあの人」のところ。私はこの「愛したあの人」のことを高畑勲監督だと思ってしまう。
「また出会える夢を見る いつまでも」
ここで私はううっ~~!となってしまう。
何度でも何度でも何度だって会いたい人がいて、その人に会える夢を見る。

私が思うのは、やっぱり宮崎監督にとってアニメをただただ作っていた時が本当に楽しかったんだな、という事だ。
それなのに私たちはいつの間にか「ジブリ」と言う物自体をエンタメとして楽しむようになっていた。
もちろん、その戦略あっての今のジブリなんだろうけど。
普通、アニメスタジオのドキュメンタリーなんて撮らない。アニメ監督の顔なんて知りゃーしない。それなのに私たちは、視聴者は、一方的にジブリの人たちを知っていて、宮崎駿と、スタジオジブリと、渦中の人たちを、ものづくりのアルカディアみたいにして、消費して、楽しんでいた。
それって宮崎駿監督にとってどういう世界だったんだろう、と思った。
ただの一職人としてアニメを作る事を喜びとしていた人がいつの間にかテレビに出ることが普通になってしまっていてて、宮崎駿監督中では「こんなところまできちまったな~」って感じだったのかな…と。

死んでいったペリカンの王は、ワラワラを食べるために連れてこられたペリカンたちは、ジブリのアニメーターや宮崎駿監督の事だったのかしらん。

「この道の行く先に誰かが待っている」っていうのは、たぶん、これから生きる人のために残された言葉なんだろなと思う。
それは、これから先、生きててしんどいことはたくさんあるだろうけれど、きっと先に誰かが居るはずだから、恐れずに進んでいいんだよ…というエールな気がするな。自分にとって、そういう人がいてくれたから、きっとあなたにも誰かが居てくれるから…。そんな感じだ。

君たちはどう生きるのかは…1回目で書いたけど、私にとって、やっぱりこれは高畑勲監督がいなくなった後の宮崎駿監督作品だな…と思ってしまう。
ここに、こんな風にいたんだね、という気持ちになってしまう。「君たちはどう生きるか」をほかの作品を比べると、宮崎駿監督の色々な発想がごちゃごちゃに詰め込んである感じ。今までの作品も宮崎駿〜!って感じだったんだけど、かなりテーマに沿わせて描いていたのだなあ。
これが宮崎駿監督の、まっさらな、何も背負っていない状態の作品なのかな~…と。


今度はこれを読んでから行くぞ!

やっぱり人一人が生きる事、死ぬこと、人生というやつは重いんだよな~。

尾張

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