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サイモンとガーファンクル アルバム「水曜日の朝午前三時」第3曲 「霧のブリーカー街」 Bleecker Street
人は人を本当に理解することができるのだろうか?
シリアスな問いかけですが、「霧のブリーカー街」(Bleecker Street)の詩を読んでいてそんなことを考えました。
サイモンとガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」は静寂の音という比喩で人間の心の中に潜む疎外感を歌いました。曲想も、言葉に表せない寂しさをイメージさせるものでした。
誤算はギターデュエットによるシンプルの印象的オリジナルバージョンではなく、エレクトリックギター、ドラム、ベースなどで装飾されたバージョンがヒットしたという現象。静寂の音が、全く静寂でないサウンドで全世界へと浸透していったのも、当時の世相(現代でもそれは変わっていない?)を見事に象徴しています。
「サウンド・オブ・サイレンス」の直接的ともいえる問いかけに比べ、「霧のブリーカー街」は、彼らのわずか3000枚しか売れなかったアルバムの3曲目に収録されている地味な歌ですが、根底にあるものは共通しています。
Fog's rolin' off the East River bank
(霧はイースト河の堤のむこからやってくる)
霧につつまれたブリーカー街の様子の描写。まるで映画の一シーンのような描写。普通の街を、美しいハーモニーで歌っています。
Smiling Faces try to understand
(微笑みの顔つきは、わかろうとすることに懸命だ)
I saw a shadow touch a shadows hand
(影がもうひとつの影の手に触れるのを見た)
という印象的な2コーラス目の表現は、何を言い表そうとしているか?
社会生活の上で人は仮面をかぶります。人を理解しようと、または理解してもらおうと、私たちは知らぬうちに笑みを「作る」癖を訓練させられます。でもそこに真の理解があるのかといえば、ほとんどない、つまり「無」の状態。たとえ血のつながった家族でさえも。上の二行は、そうした「寂しさ」を歌っているのかもしれません。
4番にとっても美しい箇所があります。
I heard a church bell softly chime
教会のベルが遠くで鳴り響く
In a melody sustaining
続くそのメロディの中で、、
ポール演奏高音のフィンガーピッキング、ベース、アートのリード、ポールのセカンドが繰り広げる美しいサウンド。メロディと音声としてのこの詩の見事な調和は、言葉では言い尽くせない感動で私たちの心に響きます。
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