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最近炎上していた、「学歴中心の履歴書から経験中心の履歴書へ」問題について思うこと

事の背景

先日、「学歴中心の履歴書から経験中心の履歴書へ」という主張がSNS上で拡散されて大炎上した。個人的にはどうせ一部分が切り取られた話でしょ?と思い、ある程度は流し見しつつ、経験が重視されることによる貧富の格差の再生産の危険性を主張する意見には共感しながら、TLに流れてくるツイートを見ていた。
経済的に恵まれた環境に生まれなければできない、経験や経歴を持つ人物の発言だからこそ、批判の矛先になったのは間違いないと思う。


少し調べてみると当該の映像が見つかったのでここにも載せておく。この映像だけでは、平原氏がどこまで”恵まれない環境”を生きる人々への思慮が及んでいるのかは汲み取れなかったが、批判されてもおかしくはない、でもあれほど炎上する必要はなかったな。というのが個人的な感想。

「大学歴社会」を紐解く

ところで、僕は今の日本社会を「学歴社会」だとは思っていない。
「学歴社会」の一面があることは否定しない。でも、世間一般で言われるような「学歴社会」が指す言葉は「大学歴社会」と呼ぶ方が正しいと思う。「学歴社会」なのであれば、中国のように学部卒よりも院卒の方が評価されてしかるべきだと思うから。でも、より高い専門性を持った、それなりの大学の院卒よりも、偏差値上位の大学の学部卒が評価されることの多い現状では、出身大学が見られていると考える方が妥当だろう。近年は私立大学のAO入試と一般入試の学生を区別し、出身高校まで評価の対象とする企業が増えているという話もあるぐらいだ。

では、どうして「大学歴社会」が実現したのか。
企業の採用活動では過去に採用した人材の評価を参考にすることが多い。
”いい大学”出身の人材が優秀な人材である可能性は統計的に高い。
ならば優秀な人材を獲得できる大学の学生を採用しよう。
そもそも、新卒一括採用のシステムでは、企業は学生に成長のポテンシャルを求める。ならば、勉強を頑張ったから吸収力に期待できる、努力ができる(故に将来性がある)という評価に繋がりやすい。
当然こんな単純な話ではないが、概ねこれが企業側のロジックだ。

他方、これを学生や親の立場から見ると、”いい大学”に進学すると”いい企業”に行けるというロジックが成立する。
このロジックがほぼ完全に成立していたのは一昔前のことだとは思うが、未だに根強いのも事実だろう。それが高校生の進路を狭め、将来像を描けない若者が増えた一因になっているとの課題感はあるが、長くなるから今回は控える。
まあ要するに、”いい就職”のための高大学歴を得るために”いい大学”に行こうという価値観が浸透しており、その感覚が「学歴社会」を形作っているんじゃないかなという認識が強い。

大学の大衆化と経験重視への流れ

さて、日本の大学進学率は概ね55%程度だ。
この数字だけを見て日本を低学歴国だと主張する人もいるが、短大と専門学校を含めた高等教育機関への進学率は83.8%(2021年)なので、その指摘は不適切だろう。これだけ多くの人が高等教育を受けているのが現状である。

教育社会学の有名な理論にマーチン・トロウの理論がある。
超ざっくり紹介するとこんな感じ。

  • 高等教育への進学率が15%まではエリート段階

  • 進学率が15%を超えるとマス段階に移行する

  • 進学率が50%を超えるとユニバーサル段階になる

  • それぞれの段階によって、高等教育機関の機能や目的、学生の性質等が質的に大きく変容する

細かい話やこの先の議論は興味があれば調べて欲しいが、言いたいことは、大学が大衆化した以上は色んな前提や環境が変わるよねってこと。
よく「最近の大学生は勉強しない」とか、「Fラン大学が~~」みたいな発言を目にするけど、それはそういうものだということ。
この背景には、大学がビジネス利用された結果とか、研究を目的としない教育大学が増えたとか、高校レベルの学力すら持ちえない学生をの資格取得と就職支援を存在意義にする”大学”が保護者の支持を得ているとか、日本の大学がマズいことになってる要因でもある様々な理由があるのだけど、その辺はまた機会があれば詳しく整理する。

今回の話題に特化して言うならば、高等教育の大衆化に伴って、とにかくこの数十年の間に大学という組織や学生の質が大きく変容した。それは名の知れた大学の学生の専門性が低下していることも意味するし、それ以上に「大学生」というステータスだけでは就活に有利とはいえない状況になったことを意味する。
そこで、採用において経験が見られるようになりつつあるのが、最近の流れだと理解している。

経験重視のメリットとリスク

個人的にはこの流れは良いことだと思っている
目的意識をもって努力したことは、結果がどうであったとしても評価されるべきだと思うし、経験は人生において大きな財産になると考えるからだ。
そもそも、これまでにイメージされてきたような「学歴社会」が社会構造上の限界を迎えている以上は、それに代わる指標的な何かが必要で、その評価軸に経験を挙げることはなんら不自然ではないと思う。

実際に、偏差値70後半の母校から日本トップクラスの大学に進学したものの、「受験の成功が人生の成功を意味する」との幻想から脱却できず、死んだ目をして同窓会にやってきた同期達よりも、受験に失敗したからこそ頑張ろうと、いわゆるFラン大学から国内外で沢山の挑戦をした友達の方が比べるまでもなく優秀な人材だった。(それでも前者が就活で成功するから「学歴社会」なんだとは思うが。。。)

学生の間にしかできないこと、得られない学びは沢山ある。だからこそ、経験が重視される社会は素晴らしいと思う。

でも、経験が重視されることに伴う様々なリスクを忘れてはいけない

経験の差は経済格差との関係性がかなり強い
貧しい家庭よりも裕福な家庭に生まれた方が、例えば海外旅行に行く、留学するといった機会に恵まれることは容易に想像できる話だろう。
一方で、貧しい家庭に生まれると、お金があればできるが、お金がないから我慢することがどうしても増えてしまう。こうした社会的背景を無視して、”経験のある人”が評価されるシステムが構築されることは、本人の努力では抗えない格差を「自己責任」として肯定することを意味する。

知っている例では、子どもを育てるボランティアをしながら教員免許を取得し、勉強熱心に素敵な教員を目指す人がいた。その人はすごく優秀な人だったけれど、お金がなかった。それでもどちらも諦めないために、夜のお店で働きながら勉強やボランティアに打ち込んでいた。
彼女は夜のお店で働くことを他の側面も含めて肯定的に考えていたし、彼女の選択が悪いものだとは全く思わない。でも、そうでもしないとボランティアという経験や学びを得られないような”貧しい”学生が、探せばいくらでもいるという現状には一考する余地がある。

格差を巡る同様の課題は教育や学歴を巡っても指摘され続けてきた。
例えば、塾の力を借りて”恵まれた環境で”勉強に成功した人は、しばしば「努力をすれば誰でも賢くなれるから、勉強を頑張らなかった人はできなくて仕方がない」と考える。
一方で、努力をしたくても塾に行くお金も参考書を買うお金もない、さらにはヤングケアラーとして家事や介護に時間を割かざるを得ない子どもたちも沢山いる。相対的貧困が広がる日本ではこれからも増え続けるだろう。
”恵まれた環境”で育った人が、このような頑張りたくても頑張れない人に対して想像力が及ばないことは決して珍しい話ではない

平原氏が炎上したのは、本人の考えがここに行き届いているかはさておき、この想像力が欠けていると解釈された点にあると見て間違いないだろう。
日本よりも経済力のある海外の国を指して、「豊かな日本人が助けてあげる」と平気で語る「意識高い”系”」の若者が生まれる元地になっているようにも思える。

これほど極端な例ではなくても、例えば社会学には文化資本という概念がある。文化資本を超ざっくり紹介すると、感性や価値観の形成にはお金以外の資本も影響を与えて、それは親や環境に左右されるよねという理論。
例えば、親が音楽を好む家庭で育つと楽器を学ぶ機会が、家に沢山の本がある家庭で育つと語彙力を増やす機会が、沢山あるでしょうと。そうした経験が、感性や価値観、マナーや振る舞い、強いては学力も大きく左右するよね。こうして身についたハビトゥス(習慣)が人生に与える影響は大きい。そういう話。

この話題の最初にお金の有無で経験に差が出るって話を書いた。
だけど、その経験の差は決してお金だけじゃない環境にも左右されるし、その傾向は既に教育格差を考える場で学力を巡る課題として散々問題視されてきた。
だからこそ、経験が重視されることは格差のさらなる助長に繋がると批判されるわけで、それならば「学歴社会」の方が少なくとも機会は平等に与えられている分マシだという考えが出てくるというわけだ。

教育機会の平等がある程度成立している状況下で、公平性や格差をどう改善していくかという課題に対して、経験を重視するという回答の妥当性が問われた。今回の炎上はそういう話だと思う。

道端の石ころの美しさにあなたは気づけるか

とはいえ、とはいえだ。平原氏の主張はよくわかるし、僕もこれまでに議論してきた問題点を考慮したうえで、経験が重視されることは望ましいことだと思う。
ただ、ここで僕が重視されるべきだと思う経験は、単に「~~をした」という事実の優劣ではない

どんなに些細な経験であっても、それに意味を持たせることができるか、その経験の中で何を考えて、どう行動し、その後の何に生かしたのか。それが一番大事なポイントだと思う。

バイトでもサークルでも授業でも、それこそ貧しさの例として挙げた(というと書き方が悪いのはわかってるけど)ヤングケアラーでも、どんなことでも、その人を形作る経験になる。
確かに、「学業を頑張りました!」や「バイトを頑張りました!」よりも、「海外で~~しました!」「資格を〇個取りました!」の方が、初見のインパクトが強いのは間違いない。
でも、ちゃんとした企業が見ているのは、何を経験したかじゃなくて、何を考えて行動したのか。

ただただすごい組織に在籍して何もしないよりも、”よくある経験”から何を学ぶかの方がよっぽど大事。その本質を見落としたまま、経験を語ることほど浅はかなことはないとさえ思う。

きれいごとかもしれないけれど、それを見ようとしない企業には入っても個人として大事にされないと思ってしまうし、そもそも就職とか学歴とか関係なく人生楽しくなくない?って思ってしまう

だから、僕は後輩の相談に乗るときによく、「道端の石ころの美しさに気づけるか」を問うし、「鳥かごの中で満足したいのか、鳥かごの外で羽ばたきたいのか」を問う。
何気なく過ごしている日々から何を見出すか、そのためにどんな視点を持つか。日常でも非日常でも、「体験」をどうやって自分にとっての「経験」に変えていくのか、そのプロセスが何よりも大切で、その「経験」のための努力や結果こそが評価されるべきものだと思う。その総称としての”経験”は重視されてしかるべきだと思う。

今年就活する大学生の多くはコロナ禍で大学生活を潰された学生たち。
彼らは経験が無いと嘆き、企業も差別化できないことを悩んでいるとの声をよく耳にする。それはきっと、何をしたかという経験ばかり見ている証拠。
この困難な状況でもがき続けた若者たちが「経験」が無いというのは、その本質を見ていないだけ。むしろこの状況をどう乗り切るかという素晴らしい「経験」をしているはず。
そういう意味で、小さな石ころの美しさに気づけるような視点を持つことが大切だと思っている。どんなことでも、捉え方次第で意味のある経験になる。その経験を大事にしたいし、評価される社会になってほしいと思う

結論的なやつ

まあ何が言いたいかというと、「学歴」にこだわってあれこれ言うのも、何をしたかという意味での”経験”に対してあれこれ言うのも、そもそも就活や履歴書を基準に物事を考えるのも、ものすごく不毛なことだと思うんだよね。
表面上はそういう話かもしれないけれど、結局はどうやって生きるかの話。

体験の豊かさはお金や環境で変わるし、それが学歴や経験という結果の格差を繰り返す要因になっているのは事実。そこは真摯に向き合って、格差が是正された公正な社会を目指していかないといけないと切に願うし、何とかしていきたい。

ただ、今回の炎上や、進路選択の話の根幹にあるのは、個々人がどうやって生きるか、自分の人生をどうやって彩るか。そして、それを就活という限定的な観点でどうやって評価する/されるかの問題

ここまで長々と書いてきた中で、「学歴主義」の違和感と理解できる背景、経験を重視することの危険性と、視点を変えることの必要性は伝えられたんじゃないかなと思う。
色々話題を広げすぎて、一回読んで理解するのは難しい文章になってしまったけど、読むたびに気づきを得て、最終的に理解してもらえると嬉しいです。

特に親世代と学生諸君には!!!