見出し画像

2/26(金)

やっぱり、インスピレーションが湧くと自然と自分の中の引き出しから旋律が生み出される。

わたしは、残念すぎるくらい音楽の理論が頭にない。
音大にも行って、大学院も行ってるけど、理論的な要素は感覚でしか捉えられなかった。
何となくの意味合いはわかるけどね。

でも、この感覚は結構強く持ってる。
体験や感じたことを、音や言葉にする。
多分、私が私で居られるって思えるのは、これらの表現を「誰かに見てもらえる」「誰かが生み出した感性を受け取ってくれる」って思うから。

人一倍、承認欲求が高い。
それに自分自身が気づくのが遅かった。

というより、認めたくなかった。

いまは、違う。


わたしは、わたしである限り私だから、私自身を自分で認めていかないといけない。
自分はこんな人間じゃないって思うことで、正当防衛してたんだなぁ。

案外心は、本当に繊細でナイーブで傷つきやすい。
それを周りに悟られたくないから、強くいる。強いふりをする。
でも、本当は、そんな私に気づいて!って心のどこかで思ってた。

いま、私は苦しいの!
私の話を聞いて!
叫びを聞いて!

みたいな。

でも、それはもう1人の私にとって恥ずかしい存在だって思ってた。
そんな弱くてどうする。
苦しいなら、苦しい中で努力してなりたい自分になればいいって。

多分、どちらも本当の私であって、こんな矛盾を抱えててどっちが本当の自分なのかわからないよって思ってたけど、
結局は、どっちも本当の自分だった。

それに気づけたのは、
この日記を書くようになって、
あとは
西洋占星術で細かく自分を知ることができて、
はじめて理解できた。


わたしはかっこよく生きたいとかじゃなくて、
悔いなき人生を送ることがひとつの目標。

すべての決断、出会い、行動、思考は、
私が悔いなく選んだからって言いきって、死にたい。

そこに悔いがあったら、
私は死に切れないから。


音楽への葛藤があったのも、
きっと相反するものを持っていたからなんだって。

好きだしたのしいけれど、やりたくない。
練習は好きじゃない、辛いことばかり。

でも、好きって、楽しいだけな訳がない。
好きを追求してしまうならば、そこには必ず「好きじゃないこと」だって出てくる。

夢をおいけるには、叶えるには、
必ず苦しいことや、辛いことだってある。

それを見ようとしない自分がいた。
つまり、覚悟を決められなかった。

そんな弱くて情けない自分を認めるのは、敗北を認めたことと同じ気がしてわ私は嫌だった。

でも、最近そのことに認められるようになった。
すると、ものすごく視野が広がったし、
生きやすくなった。


わたしは、わたしでいいんだ。
醜い自分も、かっこいい自分も、
根悪な自分も、甘えん坊な自分も、
全部、私ということには変わりない。

って思えたら、努力することが全然苦じゃなくなった。
むしろ、自然とルーティンのようにできるようになってる。

あと、どんな物事にも感謝の念が常に動く。
今自分がいろんなことできるのは、多くの人の支えと力があってのこと。間違いない。

それにね、
「ありがとう」って言葉は、たくさん色んな人に伝えてる。
伝えようと意識してるわけじゃなくて、本当に感謝しているから。

ちょっと照れくさい時もあるけど、
「ありがとう」を言って、嫌な顔はされないから。

昨日までの私は、いつも死ぬ。
そして、朝目覚めた私は、生まれ変わる。

そんな感覚で、今を生きてる。

生まれ変わっても、
変わらない行動ってのは、
私の核となる部分で、樹齢1000年以上並みの図太く立派な幹を生やしているんだと思う。

そんなことを、思えるようになった。


この日記も、
私が勝手に書いてるのに
いつも呼んでくれる、あなた。
ほんとうに、ありがとう。


さっ、寝よ。
おやすみ。

いつもありがとうございます(*^-^*) 次なるコンテンツの本に使います♪