見出し画像

日常の場所がわからなくなっている

<孤独の質感>

日中は実家で仕事。終えてバスに乗って東京まで。どうやら来週から出社が週1→週3になるとの連絡があり、長い日数の帰省も難しくなりそう。

気丈な母は、私に対して東京の生活があるのだからとむしろ実家には居てくれるなといわんばかりだけど、実際のところ独りで居るのはどうなんだろう。それは寂しいに決まっている。その寂しさの本当のところは私にはわからない。私は故郷を離れれば東京に家族が居て、それが日常のように感じられる。夕飯を作り、家族一緒に食べ、あとは各々の時間を過ごす。今朝目覚めた故郷で今は、母がひとり夕食を食べている。

まったくの孤独に人は生きてはおらず、私は皆のおかげで日常を過ごすことができている。その中において孤独を感じることがある。そんな孤独の質感と、母の孤独の質感は明らかに違う。今でも母は、父の遺骨が置かれた祭壇の前で、父に向かって話しかけている。その言葉は父と母においてしか通じない共通言語で、いくら息子とはいえども立ち入ることのできない世界に思える。


<セット>

昨日地元の美容室に髪を切りに行った。母も普段お世話になっている美容師さんで、僕も若い頃は何度も行っており、おそらく十年振りとかだったろう。話をしている中で、「お父さんとお母さんはセットだったから」と言っていた。「セットだったから、お母さんはきっと大変だと思う、でも気丈だから」と言っていた。

そう、母は今も日々忙しく過ごしている。やることは沢山あって、頻繁に出かけては諸々の手続きやらをしている。あるいは家の片付けをしている。「あんまり忙しくしてばかりでも大変だから、少し休みなよ」と言うが、それでもいろいろやっている。

きっといろいろとやることがある方がよいのだろう。むしろやることが無くなってしまったら、それはそれで心配だろう。そうは思うが、そんなに慌ただしくしてくれるな、とも思う。適度な速度で、とも思う。ただ、まだ父が亡くなって3週間あまりで、四十九日になるまではきっとその速度感は変わらないだろう。その法要が終わってひと段落ついた、その後にずっと続くように思われる日常の長さをもってすれば、まだこの数週間は慌ただしくあるだけで良いのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?