見出し画像

遺品を通して父と対話する

夕方の海岸の桟橋は結構密。船の向こうには富士山がうっすらと見える。

母兄僕で実家の片付けをしている。それなりに進んだのだけどまだまだだ。父は本当にいろいろなものを保管している。片づけが進むほどに「なんでこんなものを取っておいたんだろう?」と思ったりする。

けど、そこを責めたりするとかではなくて、もうそれはそれということで、細々としたものをひとつひとつを見分しながら分類する。ほとんどを捨てるだろうが、それでもそうやって父が残したものと向き合いながら捨てるっていうのはまだ幸福な方だろうと思う。

意味が分からない数字が羅列されたノートが出てきたりする。それについてはまた今度書こうと思うけど、その思考の流れを追うことはできない。モノが出てきたことによって「これはなに?」と父に聞いてみたくなるが、すでに父はいないので聞くことはない。聞くことはできないが、父がいなくなったから父の遺品を整理することになって、整理して発見したノートに出会ったから聞いてみたくなる。っていうのは父が亡くならなければ起こらなかったことだから、結局は「何が書かれているのかよくわからないノート」については、どっちにしろ聞くことはできなかったはずだ。

父が亡くなって2か月が過ぎた。遺品を通して父と対話する。母兄僕で、遺品を片付けながら、時に目についたものを囲んでああだこうだ言いながら分類していく。それがまだまだ続く。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?