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【エッセイ】音楽と空間

先日、マンションやアパートでない一軒家でも、21時には気を使って音(楽器や歌声)を出せなくなるという話をききました。

涼しくなってきたからか、また駅周辺(ストリート)で演奏する人達を見かけるようになりました。演奏の良し悪しはさておき、気になったのは、その「場」の騒音でした。

居酒屋の呼び込みや行き交う人々の会話といった「声」だけならまだしも、駅周辺という場所柄、そこにはあらゆるノイズが絶えず強制的に耳につくため、いちはやく走り抜けたくなります。

その騒音だらけの場所で、どうして努力と時間を重ねて紡ぎ上げた音楽を奏でるのか。もちろん人々が行き交う場ではありますが、聴衆はもちろん(おそらく演奏者も)騒音が絶えぬこの場では、そもそも「耳を澄ます」という聴取の本質が失われてしまうと感じるのです。

『ドラえもん』の名物「ジャイアンリサイタル」。仲間が集う空き地でのリサイタルは、のび太たち聴き手にとっては「歌声=騒音」であるかもしれませんが、あのような閑散とした空間は、思う存分に音楽できる場です。しかし、今日の日本の都市部では、そのような場が次々と失われ(奪われ)ています。

確かに、高性能で低コストの音響機器や楽器の普及によって、音楽作品の「質」は上がり続けていますが、音楽の「器」となる3つの要素、演奏者、聴衆、空間を揃える必要性は変わりません。その中でも「空間」を創出しようという意識や取り組みは、他の2つに比べて希薄であると感じてなりません。

音楽作品の「質」は上がり続けているのに、音楽の「器」として必要不可欠な、音楽を奏で聴取する空間を創出しようという意識や取り組みが置いてきぼりになっている、と。

自分自身の経験だと「鳥肌」が立つほどの感動は、音楽を体感する空間自体が発するアフォーダンス(環境が人間に提供する価値)が、聴衆はもちろん演奏者を含めて、単なる聴取・演奏から体験・体感へと音楽を昇華させていると感じるのです。

※大橋力氏の「ハイパーソニック効果」のような研究もあります。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20140224/260164/?rt=nocnt

空間のアフォーダンスと言えば、ぼくが坂本龍一さんの音楽に初めて深い感動を覚えたのは1996年のTrio World Tourのドキュメンタリーでした。真夜中に放送されていたそのドキュメンタリーをTVで偶然みて、確かアテネのコロシアムのような会場で「ここでなら聴衆がいなくても、何時間でも弾いていられる。場所に聴いてもらっている感じがする」と言われていたことが、リトルブッダのエンドロール「Acceptance」の美しい音楽と共に強烈な記憶として残りました(下記動画:9:09〜 演奏|18:00〜 インタビュー)

 https://www.youtube.com/watch?v=UlGCw23nlos

この近年、ニコニコ動画やUstream、YouTubeによるLiveの配信(デリバリー)が一般人にも普及し、今後も大きな発展の可能性を秘めていると思います。自分もその恩恵を受けているひとりですが、やはり音楽家と聴衆と同じ空間に居ながら、お互いの感覚・身体を研ぎすませて、音楽が一回性の時間芸術であるという本質を大切にしたい、とあらためて思うのです。

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