見出し画像

20230702 日記の客観的価値

今日は似顔絵を描いてもらって、知らない人の歌集と、その人の日記を買った。

日記を読むと、1日1日のイベントが、まるで自分の、今日のことのように入ってくる。

知らない人の日記は良い。普通に生きていると、自分は世界の主人公なんじゃないかという気になってくる。ただそれは、世界をドキュメンタリー化しているのがこの自分の眼球のせいなのであって、実際はそういうドキュメンタリーが共時的に、パラレルワールドとして重ね合わさっているのである。自分にとってのモブキャラは彼にとっての主人公だし、逆もまた然り。そういうことを、知らない人の日記は、教えてくれる。

見方を(大胆に、かなり非自明な形で)変えると、何かを書くということは、私にとってのエピソードでなければならない気がする。客観的事実は語るまでもなくその場に存在し、共有されるからだ。日記とはそういう意味で、書くことにも意味があるように思う。故にいま、ブラッドオレンジジュースを飲みながらこれを書いている。

昨日髪を染めたばかりなのだが、このタイミングでちょうど夏が来た。汗をかくと色素が落ちるので、道を歩くにも数分おきにコンビニに寄り道しなければならない。

身体の声によく耳を傾けてみると、汗は、厳密に言えば、一定以上暑さに曝された時ではなく、一定以上暑さに曝されたあと、その暑さを自覚した時に噴き出てくることに気づく。駅まで歩いている間ではなく、電車に乗って一息ついた時。(もう一個例を挙げようとしたけど思いつかないので適宜埋めてください)。

とはいえ、何かを考えないようにするというのは人間非常に難しいもので、(例えば、唾の飲み込み方に一度違和感を覚えてしまうと、忘れるまで上手く唾が飲み込めなくなる。貴方も今そうなったでしょ。かわいそうに。)知ってしまったからにはなんとか制御していかなければならない。というわけで今のところは、定期的に意識することで、汗をかきすぎる前にコンビニに逃げ込むことにしているのだ。

右の背中が痛くなってきたからこの辺で止めるが、一人称としての意識はこんなものである。日記は誰のためにある?と考えると、自分にとっても他人にとっても価値があるように思えるし、その事実自体によって、客観的な価値もあるのではないかと思えてくる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?