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離婚したときのこと

私はバツイチです。
26歳で結婚し、32歳で離婚、
36歳で現在の旦那さんと再婚しました。

前の旦那さんは大学の1年先輩でした。
サークルで知り合い、歌がとても上手だったのと
優しい人柄に惹かれて付き合いました。
初めての彼氏でした。

大学を卒業し地元に帰って就職した4年目、
今でいうパワハラに遭い、メンタルを病みかけていた時に
「東京に戻っておいでよ。結婚しよう。」と言ってもらったことで
仕事を辞め、結婚して埼玉県に引越しました。


半年ほど専業主婦をしたけど、
実は自分が「働く」ことが好きな人間なのだと気づき
派遣社員として、専門学校での事務の仕事を時短でゆるく始めました。

結婚2年目くらいだったと記憶してますが
仕事で異動があり慣れない環境下に置かれたことをきっかけに、
当時の旦那さんがうつ病になりました。
この仕事面での変化に加え、
「結婚+転居」という生活環境面の変化がストレスになったのだろうと思います。
彼は結婚するまで実家を出たことがなかったのです。

私が5歳の頃、母が育児のストレスでうつ病になりました。
以来20年以上、細く長く、うつ病と共存する生活を続けてきました。
(今も薬をお守り代わりに携行してはいますが、当時からは考えられないくらい、すっかり元気なポジティブ老人になりました。笑)

弟はもともと神経が細いタチだったこともあり、
10代でパニック障害を発症していました。
(加えて躁鬱の気があるので心配は尽きないですが、今は元気に仕事を頑張っています。)

私自身がそんな家庭にいたので、
「身近な人のメンタル疾患には慣れてる、自分が支えて治してやれる」
と過信していたんだと思います。

でも、うつ病って、他人がどうこうできるものじゃない。
今ならそういった情報を目にする機会も多くなったし、
結局は自分で乗り越えて付き合っていくしかない病気だということを理解できるんですけどね。

若かったので、狭い視野の中で根拠のない思い込みを信じてたんですね。


そんなわけで、彼に合う医師と薬を探すために
何件もクリニックを探して診察に連れて行ったり、
家事はそれまでにも増してワンオペでこなしつつ
生活費を稼ぐために自分が働く生活になりました。

出勤したり休んだりをしばらく繰り返した後、
そのうち彼は会社に全く行けない状態になりました。
有給もとっくに使い切り、傷病手当や休職手当もあてにできなかったので
私も派遣を辞め、フルタイムの仕事を始めました。

幸いなことに彼の実家が近かったので、
金銭的な支援も含めて色々な面で助けてもらいました。
義理の妹も2人いましたが、義母・義父を含め誰もが
いつも私達のことを気にかけてくれました。
今思い返しても本当にありがたいし、心強いことです。

だけど、若かった私はとにかく強がって
周りになかなか助けを求めることができず
1人で頑張って、1人で解決しようとし続けちゃったんですね。
今思うと脆くて、愚かです。

フルタイムで勤務した後にスーパーに寄って
疲れて帰ると、電気も点いていない家の中で
顔色の悪い夫がソファでぐったり。
朝、家を出た時と同じ光景です。

すぐ夕ご飯を作らないといけないけど、
昨日の洗い物を片付けるところからのスタート。
カーテンも閉まっていないリビングには干したままの洗濯物。

でも「仕事してないんだから家のことぐらいやってよ」とは
口が裂けても言えませんでした。
傍からは何もしないでボーっとしてるだけに見えても、
本人にとってはすごく辛い精神状態の中で「ただ居る」のに必死だったはずなので。

こんな調子で、彼は自分のことで精いっぱい。
私も、時間にも気持ちにもゆとりを持てない日々が続きました。


そうして、ある日「共倒れ」です。

「もう無理だよ。。。」
ほとんど記憶がないですが、気づけば泣きながら叔母に電話していました。

この時、両親に電話しなかったのは、気持ちが限界にきている中でも
離れた親に心配をかけたくないという、この期に及んでの強がりだったんでしょう。
当時はそんなことを感じる余裕もありませんでしたが。

それからすぐに、自宅から近かった叔母の家に居候させてもらい
別居しながら彼と彼のご両親と、離婚に向けた話し合いを始めました。

既にメンタルが疲弊していたこともあり、
私の気持ちはとにかく「もう2人で暮らしていくことはできない」。

早いうちに子どもが欲しいと思っていましたが、
当時の状況でそんなことは考えていられません。

何より
「この先、彼が少しずつ回復したとしても、
この人の子どもを産んで育てて、一生一緒に過ごしたいと思えない」
この思いを、最後まで覆すことができませんでした。

この時の話し合いを経て、彼の病気とは関係なしに
2人の間に根本的な考え方の違いがあるということが、その時にやっと分かったのです。
今までお互いの何を見て何を知っていたんだろう、と思いましたが
今さらだったんですよね。

でも。
別れるなんて無責任。
甘えだし、ただの逃げ。
彼と自分と、2つの家族への裏切りだ。
そう思いました。

結婚式だって挙げて、あんなにたくさんの人にお祝いしてもらったのに。
彼のご両親も妹たちも、こんなにいい人達なのに。
自分の親も弟も結婚を喜んでくれたのに。

でも。
もう無理だったんです。

離婚は私からの申し出でした。
彼は反対でした。そらそうですよね。

そこから1~2カ月くらいだったでしょうか、
家族を交えてと、2人だけでと、何度か話し合いをしましたが
当人同士の意見が折り合うことはありませんでした。

最後は彼のご両親が
「マサヨさんの幸せを優先しなさい」と彼を諭してくれて着地しました。

ご両親も妹たちも、最後までひと言たりとも私を責めませんでした。
それどころか
「今まで本当に頑張ってくれたんだから、
マサヨさんが幸せになれるように生きてほしい」
という言葉をかけてくれました。


なぜこうなった?
どうしてもっと上手くできなかった?
今でも、考える度に涙が出てきます。

ここまで支えてくれた多くの人を傷つけてしまいました。
それでいて、自分から別れたいと言ったくせに
離婚して数か月は、悲しさと申し訳なさとで
泣かない日はありませんでした。

「離婚には結婚の何倍ものエネルギーを使う」とは本当です。
あの時はとにかく辛かったし
当時、周りにいてくれた人達にも
いたたまれない思いをさせてしまったなと思います。

それでも、離婚を決断してよかったと私は思っています。
元旦那さんはそんなことはないと言うかもしれないですが
どちらか一方が無理をして続ける暮らしは、
いつか、何かを必ず壊します。

我慢して一緒にいる側が幸せじゃないのはもちろんですが、
我慢させて相手を自分のそばに置いておくことが
本当に自分にとっての幸せでしょうか。


月日は過ぎ、毎晩泣くことはなくなっても、
私の心はずっと元旦那さんとご家族に対して後ろめたいままでした。
さぞかし恨まれてるんだろう、裏切り者だと思われてるんだろう。
彼への純粋な心配もありましたが、実際はそんな気持ちも大きかったです。

だったら別れなきゃいいのに。
なんと傲慢なことです。

そんなある日、
普段まったく使わない駅からたまたま電車に乗ろうとして
彼の妹にバッタリ出くわしました。
まさかの、この近くで仕事をしているとのこと。

びっくりしたのと件の申し訳なさで
なんとも言えない顔になっていた私に、彼女は満面の笑みで
「元気??あれからいい人いた?」
などと聞いてくるのです。

愛想笑いや皮肉な笑いではなく、心からカラッと笑っていたのです。
曲がりなりにも、家族として何年も一緒に過ごしたので分かります。

その瞬間、
「自分が幸せになるように生きていいんだよ」と言われたような気がして
肩の荷が下りた気持ちでした。
そもそも、抱える必要のない荷物を勝手に持っていただけなのかもしれません。


離婚は悲しかったし辛いことだったけど、
自分にとっては必要な経験だったのだと思います。

人生、全ての出来事には意味がある。
まあ実際、それくらいに思わないとやってられないね。笑

当時、星野源の「フィルム」という曲を
仕事帰りの車の中で毎日聴いて、泣きながら運転していました。

どんなことも 胸が裂けるほど苦しい
夜が来ても すべて憶えているだろ

声を上げて 飛び上がるほどに嬉しい
そんな日々が これから起こるはずだろ

星野源「フィルム」

「声を上げて 飛び上がるほどに嬉しい」
今はそんな日々です。

今までと今の日々、人々に感謝して。

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