『コロンブス』は教養の問題なのか〜全然違う話するので注意

※全然違う話するので注意。また、誹謗中傷の意図はなく、ただ、感想をメモっただけです。

『教養なし』とバッサリ

アサ芸プラス 見出し

話題になっているMrs.GREEN APPLEの『コロンブス』であるが、検索してみるとこんな記事も出てくる。「教養なし」とバッサリ切られているが、はたして教養の問題なのであろうか。

SNSでよく議論の争点として出てくるのは『チーム』の問題だ。「分かっていた人はいたけど言えなかった」「言った人は評価されずむしろ潰されてしまう」こればかりは自分は何とも言えない。実際そうなんだ、と言われたらそれまでだからである。

したがって、今回はその観点には触れないことにし、その上で、これは教養の問題なのかちょっとだけ綴る。

『倫理観』の問題なのでは


自分には弟がいるのだが、弟と先ほど載せた写真の記事見出しについて話した。弟が言うには『教養』が原因ではないんじゃないかと。気になった僕は続きを聞く。※今回教養という言葉は、物知りであるという側面を強調させて使っている。

奴隷描写はちゃんと描かれており、少なくとも「何も知らない」わけではないと感じたと言う。では、何が足りないのだろう『倫理観』の話になった。

「悪意ある描写を悪意なく描いているのが問題だ」という着眼点が出てきた。この指摘は、SNS上でも度々見られた。「風刺や皮肉として描いていれば、素晴らしい作品になったかも」なんて意見だ。それをコカコーラのスポンサーでやるなよ、とは思いつつ、確かに、悪意ある描写もしっかりとした意図を含んで描いていれば、あともう少し弁解の余地があったかもしれない。

この『悪意なく悪意を描く』問題はかなり根深い問題で、たとえば誰、とは言うつもりはないが、世の中にはとても勉強しており、知識を豊富に持っている人たちがたくさんいる。その知識欲には尊敬ばかりで、時間も体力も、勝てないことがしばしば。

だがそれはそれとして、「んむむ???」と頭を傾げてしまう発言をする知識人はちょくちょく見られる。知識はあるのに、なぜそんなことを言ってしまうんだろうと思わず感じることがある。

人には多様性があり、様々な考えも、しっかりとした思考に基づいて発言をしている、という尊重はしたいものの、「多様性を認めた上で、擦り合わせること、理解すること」が大事だと僕個人は思っているため、ここもちゃんと考えていきたい。

思うに、「知識として知ってるだけではどうしてもピンと来ない」ことがあるのではないだろうか。人は失敗を重ねて学んでゆく。この『コロンブス』のYoutubeコメントでも然り、「こんな歴史があったことを知らなくて、それだったらこの動画はとても嫌な思いをしてしまう人たちがいるよね」と気付いた人たちがいた。知識として知ったことで、自分が言ってしまった発言がどういう解釈をされてしまうのか、どういう残酷性を秘めてしまうのか、それに気付くことはたくさんあると思う。

だが、「あっ、これ言っちゃダメなんだ、ふーん」で終わる人がもしかしたらいるんじゃないだろうか。それがダメなことが分かっても、それがダメな理由がいまいちピンと来ない、そういう人もいるんじゃないだろうか。別に悪いことではないと思う、知った後は言わない努力をする、自分の視点で今まで見えてこなかった人たちの配慮をする、それができれば、自分の心の中で何を思っていようが自由であるし、それこそが多様性の意味じゃないか。これは皮肉じゃなくて、本当にそう思ってる。

しかし、仮に、この感覚を『倫理観』と呼ぶのなら、今回の『コロンブス』騒動は教養というよりも、この倫理観が欠けていたと言うこともできるんじゃないだろうか。それがダメな理由を、強く自分の中で納得できていれば、この動画は公開されることがなかったんじゃないかと思う。悪意ある表現を、悪意あるものと、理解できる納得感が倫理観なのならば、この倫理観というのはやはり重要なのは違いない。

ここからが話したい話


まず謝罪をさせていただきたい。
全然関係ないミュージシャンの話をします!!!!

この『コロンブス』について考えてるとき、自分が好きなミュージシャンの好きな理由の一つの側面に、急に気付いたので、その魅力を話したいと思ったのがこの記事を書いた理由でした!

これは下手するとめちゃくちゃ怒られると思う。まず、Mrs.GREEN APPLEを好きな方がこの記事を見たら、自分の好きなミュージシャンが議論の踏み台にされてると思うかもしれない。本当にごめんなさい。でも、最初に述べたように、誹謗中傷の意図はないし、話したい内容は違うと説明していたので、どうか怒らずにここで読むのをやめてもらいたい。
それにMrs.GREEN APPLEの素晴らしさはまた違うところにあるのではないだろうか。ミュージシャンのある一面が自分にとって響いたように、ある一面が響かないこともある。そしてMrs.GREEN APPLEの魅力は、この炎上で無くなってしまうものだろうか。今までを否定するものだろうか。そんなことはないと思う。だから、どうか許していただきたい。

次に怒られそうなのは、今から紹介するミュージシャンが好きな人たちだ。事前に言ってしまうと『筋肉少女帯』と『たま』が好きな人たちだ。こんなnoteの隅っこにある些細な記事とは言え、自分の好きなミュージシャンと炎上を関連づけないで欲しいと思うのはその通りであるし、「何かを下げてまで、自分の好きなミュージシャンを褒めて欲しくない!」って気持ちは痛いほどわかる。「今の曲は微妙だけど、この時代の曲は本当好き」みたいなコメントをYoutubeで見るたび、自分も複雑な気持ちになっていたからだ。

しかし、決して比較して素晴らしいと思ったわけじゃない! そこは分かって欲しい。
たまたま、『倫理観』の話になって、俺の好きなミュージシャンには「倫理観があるから好きなんだな」と気付いたから記事に書いただけで、本当に炎上はきっかけに過ぎないのだ。さらに言えば、Mrs.GREEN APPLEに倫理観がないと言うつもりもない。さっき言ったように、『チーム』の問題もあると思うし、この一曲だけでそこまで人間性を判断するのもおかしな話だろう。

これを前提に、今から話させて欲しい。

筋肉少女帯がなぜ好きなのか


やまほど理由はあるが、今回はそのうちの一個。倫理観の話をさせてもらいたい。

大槻ケンヂ(筋肉少女帯のボーカル及びほとんどの作詞をやっている)は、とても文学性のある人で、様々な文学から(江戸川乱歩、中原中也多め)引用したりもしている。
そして小説も書いており、最近のエッセイでもその文学性は遺憾無く発揮されていた。
文学性があるということは、ユーモアがあるということにも通ずる。『高木ブー伝説』や『日本印度化計画』はユーモアとメッセージ性がうまく噛み合ったとても面白い曲だ。
しかし、僕は大槻ケンヂがユーモアだけの人だったら、ここまで好きになってないとも思うのだ。ただ面白い人だったらこんなに好きな人にはなっていない。彼はとても真剣で、とても倫理観のある人なのだと思っている。

『蜘蛛の糸』という曲がある。進研ゼミのCMのタイアップなのがいまだに信じられないが、この曲に救われた人も多くいるに違いない。そして最初から最後まで、悲しみと怒りが詰まっており、ユーモアの全くない曲だ。どこかで、オーケン(大槻ケンヂの呼称の一つ)も、この曲が一番大切だと言っていた。
※一方で『蜘蛛の糸〜第二章〜』というちょっと文学寄りになった続編もあるのだが、これはオーケンの中のユーモア「もっと面白く書けるんじゃないの?」が暴走した結果だと思っていて、本人的にも自分の書きたいことが書けたのはこの最初のバージョンだと思っている。

『サーチライト』や『おもちゃやめぐり』はシリアスだけど、ちょっとユーモアも混ざってたりするが、とにかくオーケンは倫理観がある人だと思う。悪意を描く時は、ちゃんと悪意として描くし、人間として一歩完全にラインを超えた存在を書くときは、「文学」として現す。つまり、ちゃんと「フィクションですよ 」と伝えてくれるのだ。

この、人に寄り添いつつ、他者を否定しない姿勢が、僕はとても大好きなのだと思う。

たまが好きなのはなぜか


同様にやまほど理由はあるが、今回はそのうちの一個。倫理観の話をさせてもらいたい。

たまには『そのろく』というアルバムがある。これはメジャーで発売されなかったアルバムで、理由は「放送禁止用語が山ほど使われているから」だ。なかなか手に入らないアルバムで、非常に情けないのだがしばらくは持っていなかった。ようやく最近手にすることができた。

しかし、放送禁止用語を使ってる悪意ある集団とは、決してたまに思ったことはない。みなさんはたまにどういうイメージを持ってるだろうか?

ヘンテコで変わっている集まり。と思ってる人もいるかもしれない。歌詞がよく分からないと思っている人もいるかもしれない。しかし、たまの歌詞が「意味のない適当な言葉を並べただけ」と思っている人がいるならば、それは「スピッツって何も考えてないで歌詞書いてるよね」くらい暴論であると気付いてもらいたい。※スピッツを引き合いに出したのは、歌詞が難解な有名バンドでパッと浮かんだのと、おそらく草野さんがかなりたまに影響を受けてるからである

たまは、ちゃんとメッセージ性を持っている。特に、メッセージ性という点なら、知久さんと石川さんは群を抜いてると思われる。

『そのろく』でも、一見狂気的な描写はたくさん出てくるし(最後の曲なんてまんますぎる)、正直自分も全部を把握してるとは到底言えないのだが、ただ、性格が悪いのでは決してなく、「ちゃんとこの言葉を使ったのには意味がある」と思わせる力があるのは違いないのだ。

最後に


このように、悪意ある表現が出てきても、そこにちゃんと意味や意図、さらに言えば風刺やその先のニュアンスがあれば、それは素晴らしい作品となりうるのである。例えば「愚かな民衆」を揶揄してるように見えて、実はその先の「愚かな政治」を批判してる、みたいな文学作品もあるだろうし、全ての表現は表面通りとは限らないのだ。
しかし、それ自体は問題でないものの、「これは表面通りではありませんよ」と気付いてもらえるような信頼や表現を築かなくちゃいけないのが問題なのであり、それこそが倫理観と言えるかもしれない。

そういう意味で、今回の炎上は、Mrs.GREEN APPLEが今まで築いてきたイメージと信頼が、そういう風刺や皮肉の方向性ではあまりなかったのが原因だとも言えるかもしれない。普段から捻くれた視点での歌や、皮肉ばかりを込めた歌詞を書いているバンドだったら、これは「悪意を書いてるけど、その先の意味がある」と判断されていたはずだ。

また、ここまでMrs.GREEN APPLEを弁解するような言い回しも含んでいたが、炎上した内容が内容なので、内容に関しては一切肯定せず、悪意があろうとなかろうと公開すべきではなかった、という意見はぶれないことは明記しておきたい。

【最後に】
かなりグレーな記事だとも分かってるので、もし、もしだけど伸びちゃったらすぐ消す。広がったら、あまり読んでないで解釈する人たちも現れてしまうし、関係者たちに届いてしまったら本当に申し訳なくなって、僕のメンタルぼろぼろになってしまうから。
でもここまで読んでくれてありがとうございました。



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