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『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』


街を描くこと

『ワンスアポンアタイムインハリウッド』はなによりも街の映画である。この作り込まれた「1969年のハリウッド」にいかに実在感を与えるかに、この映画はかけているとすら言ってもいい。序盤、リックを家に送り届けたクリフは、アメ車に乗り、KHJのラジオを爆音でかけ、スピードを全開に街を駆け抜けていく。劇中で初めて街が立ち現れてくるシークエンスなわけだが、このシーンの、まさに「映画」としか言いようのないなんと豊かなことか。オープンセットだからこそ体現できる建物の実在感と、その中を颯爽と車で走るクリフ・ブースの一切目線を外さずに前を向いている眼差し。この画だけでも、この映画の1969年のハリウッドと彼のキャラクターをあまりあるほど表現している。

街を描くということは、風景だけではなく、その中に生きる人々も描くということである。街というのは、その中で生活している人々がいなければ成り立たないからだ。そういう点でも、今作の隅々に渡るディテールの豊かさは雄弁に物事を語っている。前述したシーンのその後を見てみよう。クリフはドライブインシアターの裏にある我が家であるトレーラーハウスに着く。まず、クリフという登場人物がそれまで見せていた、リック・ダルトンというハリウッド俳優のスタントマンであり、その全体に溢れ出す余裕感に反して、彼が住んでいるのが、ある種ハリウッドの中では底辺感溢れるトレーラーハウスであることの驚き。そして、それがドライブインシアターというスクリーンの裏に設置されていることで、彼がスクリーンの表舞台ではなく、裏側に生きる男だと、一発で分からせるクールな演出。その中の生活描写も余すことなく彼が確実にこの街に生きている人間だと分からせる演出に満ちている。いつも見ているであろうテレビ、犬に餌をあげる動作など(そしてクライマックスではLSDでラリりながらも、それをやることで、そこまでその動作が染み付いているほど、この生活が何年も続いていることがわかる。)。そして、その裏ではスクリーンの表舞台に立つ男こと、リックがセリフの練習をしている。酒を作りながら録音機を回し、セリフを覚えるリックの一連のこれも、とてもこなれた手つきで、彼はこういった練習を何年も毎回しているのだとわかる。それらの、架空のキャラクターである彼らの人生が見えてくる生活描写が徹底して充実しているのである。

彼らのエピソードは2日目になると、少し物語が動き出すように見える。リックの方は西部劇の撮影現場で自身の演技に四苦八苦しながら、自分を鼓舞し、素晴らしい演技を見せ、子役の少女に勇気付けられる。この辺りの西部劇撮影版トリュフォー『アメリカの夜』感も楽しいが、ここで素晴らしいのは、数々の撮影の「中の人」たちとのやりとりと、彼の演技と撮影風景を丁寧に見せることで、ハリウッドにおける「仕事」を描いているのだ。ハリウッドでは常にこういうことが回っているし、その中で、落ち込んだり、泣けてくるほど勇気付けられたりする。つまりはハリウッドという街の性質を描き出したシークエンスなのだ。ここでの、演技の演技をするデカプリオの器用さには敬服する。表情一つとっても、演技と素の場面を完全に切り替えている。

リックたちが映画という作り物を作っている間、クリフの方はまるで映画のような恐怖のシチュエーションに陥る。この一連のスパーン映画牧場を舞台とする、まさに西部劇的なシークエンスは、マンソンファミリーの一連の目の映し方や、それを縦断する形でのクリフを追った横移動の撮影など、特筆すべき点は山のようにある。思い出の地が悪党どもが巣食う荒野となり、様々な目に睨まれながらの旧友訪問のシチュエーションは西部劇そのものであり、そこに溜めと引っ張り(すぐに顔を映さないダコタ・ファニングとか)でより一層の緊張感を与えている。この辺りはタランティーノ演出の真骨頂と言っていいし、ある種それを2時間半通してやったのが前作の『ヘイトフル・エイト』だと言える。

さらに、これらのシーンでは、常に現実のダメージにさらされているのはクリフの方である。かたや嘘のような豪邸に住み、かたやトレーラーハウス住まい。かたや西部劇の撮影をしており、かたやさながら西部劇のようなリアルな緊張感で荒野を往復する。映画の冒頭はリックとクリフのインタビューシーンから始まり、クリフはリックにとってどういう役割の人間なのかを語らせる場面から始まる。そしてオープニングクレジットでは彼らの名前を背後から逆にかぶせて撮っている。常にクリフはリックにとってのスタントダブルであり、それはクライマックスでも貫かれる。そんな彼らのような関係性の人々は実際に何人もこの街にいたかもしれない。それだけの実在感を、関係性と生活を徹底して描くことで、彼らに与えていく。

一方シャロン・テートのパートは一貫してプロットがない。序盤の引っ越してきた最初の一夜は、ポランスキーやマックイーンとともにパーティーを楽しんでいる。2日目は、旦那の誕生日プレゼントの『テス』の初版本を本屋に取りに行き、偶然立ち寄った映画館で、自身の出演した映画を見る。ただこれだけのシーンになぜこれほどまでの尺が割かれるのか。クライマックスでは彼女は史実と違い、マンソンファミリーの襲撃には一切関わらず、全く被害者ではなくなる。要はこの映画で描かれるシャロン・テートのエピソードは、大まかに言ってほぼほぼ前述した要素のみなのだ。しかし、初鑑賞の観客の頭の中にはチャールズ・マンソンの顔がチラつきながら、彼女の日常を見ることになる。なぜなら、1969年8月9日に起こることを我々は知っているからだ。インタビューでタランティーノは「シャロン・テートといえば世間的にはマンソンファミリーの被害者としてしか認識されていない。今作では事件そのものではなく、世間に知られていない彼女の人生の方を描きたかった」というようなことをあっちこっちで明言している。この映画では厳密にはマンソンファミリーのテート殺人事件など描かれていない。描かれているのは彼女がハリウッドの中でどう生きていたのか、もっと言うと世間にとって忘れ去られた彼女の時間である。マンソンファミリーの被害者である前に、1人の新人の女優であった彼女は、自分の映画を映画館で見ながら観客の反応に喜んでいたかもしれない。そんな彼女の姿を、タランティーノは信じてやまないフィルムという魔法の中に永遠に刻んだのだ。

そして、彼らと彼女のそういった時間を描くことは、同時に街を描くことにもつながる。この街は、こういう人たちが住んでいて、こういうことが常に起こっている場所なのだと。


現実と虚構

話は変わるが、タランティーノの映画には度々、現実と虚構(フィクション或いは映画といってもいい)のイメージが度々散見されると思っている。一番わかりやすいものでいうなら『イングロリアスバスターズ』のクライマックス、ヒトラーをはじめとした史実に存在した現実の住人たちを、スクリーンに映るフィクションの住人である架空のキャラクターのショショナやバスターズ一味によって蜂の巣にされる。フィクションが現実を凌駕するわかりやすくも見事なクライマックスである。さらに、『デスプルーフ』のスタントマンマイクが座っている耐死仕様の運転席は、目の前で女の子が死んでいく姿を安全圏から見てる席、要は映画を側から見ている観客の席と実質同じであるとも捉えられる。だからその絶対死なない安全席がぶち破られてくるクライマックスに興奮するのだ。ある種映画が現実をぶち破ってくる瞬間。これらの例を挙げてみると、常にタランティーノの映画に出てくる現実と虚構のイメージは、現実がフィクションに染まっていくことで決着する。では果たして今作はどうであったか。

この作品のクライマックスでは、史実と違い、ポランスキー邸の隣である、ダルトン邸にマンソンファミリーは侵入し、撃退される(そしてこのクライマックスにおいても傷を負うのはクリフで、美味しいところを持っていくのはリックであるという、ここでもクリフはリックにとってのスタントダブルであるのだ)。怪我を負い救急車で運ばれていくクリフを見届けたリックに声をかけるのはシャロン・テートの友人であるジェイ・セブリング。本来史実であればテートとともに殺された友人の1人でもある。彼はお隣さんであるリックを家に招待する。するとインターホン越しにシャロン・テートの声が聞こえる。リックを招き入れるシャロンは、ポランスキー邸の門を開ける。ここで初めてこの映画の主人公であるリックとシャロンは邂逅する。この映画において、シャロン・テートの物語と、リックとクリフの物語はなんとなく分断されて描かれていたように思える。序盤では、引っ越してきたポランスキーとシャロンを、リックとクリフはただ遠目に見ているだけだった。隣同士なのに集結しない二つのエピソード。この二つの物語はリックとクリフが架空のキャラクターであるという一点において、史実の物語とフィクションの物語という言い換えもできる。シャロン・テートのエピソードも、ドラマ性を一切排除し、ある種史実と違う部分はシャロン・テートが殺されないということのみのように見えるからだ。そんな、史実とフィクション、まさに現実と虚構の物語として進んでいた二つのエピソードが、最後の史実の改変によって、フィクションに染まるのである。だからこそ、ポランスキー邸の門が開く瞬間に、あのインターホン越しのリックとシャロンのやりとりに感動してしまうのである。現実にはあるはずのなかったやりとりがあり、開かなかったはずの門が開く。あの門が開かれることによって、現実の住人とフィクションの住人が交わり、隣同士の現実と虚構が繋がり、ハッピーエンドというフィクションに染まるのである。『役者はスクリーンの中に(或いはフィルムの中に)永遠に生き続ける』とはよく言ったものだが、まさにこのラストで彼らはこの『ワンスアポンアタイムインハリウッド』というフィクションの中で永遠に生き続ける。このハリウッドの街はフィルムに刻まれることで永遠に残るのだ。












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