創作のない人生

今はもうなにも、創作をしていないわけだが。

まあ、大嘘である。それに、今だけである。ぼくはあまりにも脆い殻の中に篭って雨風を凌ぐ以外の自衛手段を持たないのだ。

今は人生が懸かっている時だから、ものを生み出すのではなく答案を埋めるためにペンを握っている。仕方ないのだ。

もしこれを読んでヒクツな気持ちになった人がいたらそれは可哀想だ。ぼくが和尚さんに代わって君の明るい来世を願ってやろう。ナンマンダブ。

しかしぼくはほんとうに残念なやつだな。

結局2ヶ月ともたずにこうして文字を打ち込んでいるのだ。

これも語りのように見えて、立派な創作である。ものを生み出しているのだから。ぼくの敗北だろう。

創作をしなくてはならない自分が残念でならない。どうやらぼくはしばらく創作をしないと死ぬらしい。

でも文字を使う動物なんてのは限られているから、もしぼくが生まれ変わって北の海のスケトウダラなんかになったら、3日も経たぬ間に死んでしまう。いや待てよ、よくよく考えてみると、スケトウダラからしてみれば、3日で死んでしまうというのはそんなに珍しいことではないかもしれない。

ソウサク死なんて妙ちきりんなものは滅多にお目にかかれないだろうが、生まれて直ぐにカニなんかに食べられてしまうのはままあることだろう。

それほどに自然は厳しく、スケトウダラは美味すぎるのであろうな。

しかし、少し創作から離れて、新しいものの見方もあった。なにかに熱中しているときはぐぐぐうっとのめり込んでいて、視野がやっぱり狭くなる。狭いコミュニティのこじんまりとした影響力で王様気取りだったぼくは傍から見るとなんとも滑稽であった。(もっとも、ぼくが本当に王様になっていたかどうかは明晰な臣民に訊いてみないことには分からないが)

「あれを書きたい」「それを書きたい」から1歩離れて、間にアクリル板をドンと置いてみると、いろんな雑念が唾のようにびたびたとアクリル板にへばり着く。

ぼくは何もしない。ただ座ってその様子を眺めるだけだ。以前のぼくなら、こまめにアクリル板をゾーキンで拭いたり、なんならアクリル板をとっぱらって「やい、あんた」なんて話しかけたりしていただろう。

しかし、今のぼくは何もしないのだ。

ああ、唾が飛んでいるぞ。おお、小石まで。そんな雰囲気で、飄々とするのだ。こんなことを言うとエラい人に怒られてしまうやもしれないが、心頭滅却というやつである。

ぼくは創作に対してまっさらな気持ちのままで、ぼくという枠組みを創作のテリトリーの外側に持ち出してしまったのだ。そこには未練も、何もない。

……そう、できたらば。

ぼくはほんとうに弱いのである。

唾が飛んできたらゾーキンでガッシガッシと拭くし、小石でも飛んでこようもんなら「野郎、どこ行った」と、右手にはピストル……

アクリル板を置くところまでは良かったのだ。創作の外側にいるための努力はした。しかし、無我の境地は叶わない。創作のあれやこれやに対して1種のニヒリズム的な諦観を持とうとしていた。しかしそれは持とうとした時点で掴むことのできない距離まで逃げていってしまうらしい。

ああなんとも、まっこと残念だ。

結局ぼくと創作とのただれた関係はずるずると、このまま死ぬまで続いて言ってしまうのだろうなァ。なんて。

創作のない人生は、自分で彩る必要がないほど鮮やかなのかもしれない。羨ましいことだ。しかしその真偽のほどは、本人に尋ねないことには分からない。

創作のない人生と創作のある人生。どちらが豊かなのだろう。悔しいことにぼくには知る術がない。なぜなら、どちらも持つ人でない限り、その人生を比較することなんて不可能なのだから。

もしかしたらガクシャさんたちが寄り集まってデータをかき集め、「創作を日常的に行う人の生活に対する充足感は、行わない人の130%!」なんて論文を書いているかもしれない。しかしぼくは今、情報ではなくて心の持ちようの話をしているのだ。

もしぼくが人格を複数持っていて、創作をしない人格、創作をする人格に分かれたら話は変わってくるだろうか。

しかし、ぼくは創作をしないと死んでしまうのだから、たとえ人格が増えたとしても創作しない人格なんてものは生まれてこんでしょうな。アーメン。

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