キンモクセイ

ぼくは、多分今からだいたい15年くらい前の夏、幼稚園生の頃に引越しを経験した。自転車を15分も漕げば着くような近場to近場の移動ではあったが、当時のぼくからしてみれば「知らない領域」であることに間違いないので、大冒険だった。

その新居は三階建てじゃなくて、少し広かった。

ドアを開ければ、道路を挟んだ向かい側に公園があって、そこにキンモクセイが生えていた。

当時まだ3歳か4歳かのぼくは、その木の名前がキンモクセイだということを知らない。

当時のぼくにとってキンモクセイは、桜の木よりも低くて、太くて、葉っぱが多くて、幾分登りにくい木で、それ以上でもそれ以下でもなかった。

季節が変わって、キンモクセイは、パステルなオレンジ色の、消しカスみたいな花をたくさん着けた。

ぼくは足元のアリンコやらイモムシやらばっかり見ていたので、最初、そのキンモクセイの変化に気づかなかった。

ついにぼくが、雨上がりに道路いっぱいに広がるオレンジのつぶつぶと、甘いような情けないような匂いの正体がその木だと知ったのは、引越して3年くらい経った秋だった。

最初、ぼくはその花を綺麗だとは思わなかった。むしろ、そのキンモクセイは公園にめり込んで作られたゴミ捨て場の横に生えていたので、朝露とキンモクセイのオレンジ色に湿っている生ゴミの袋を見て汚いと思った。

しばらくの間、キンモクセイは、ただそれだけの木だった。

小学5年生の秋、ぼくはその頃ハンドボールクラブに入っていて、ボール遊びが好きだった。

キンモクセイは太くて、ボールをぶつけるのに丁度よかったから、壁あての要領でそいつにぶつけていた。不意に、ボールがすっぽ抜けて、キンモクセイのてっぺんの方まで飛んでいった。がさっと突っ込んだボールは枝を震わせ、その時、ばっ、とオレンジの火花が散った。

ぼくは初めてその花を綺麗だと思った。

その木の名前がキンモクセイだと初めて知ったのは、それから少し経った頃だ。その名前を聞いてぼくは驚いた。この木に名前をつけた人は、あの花を金色だと思ったのか。しかし、何度か繰り返してみると、どうしてなかなかよく似合う名前じゃないだろうか。ぼくの頭の中で、炸裂するオレンジの火花がフラッシュバックした。

キンモクセイに秋の印象はあまりない。やはりキンモクセイは「キンモクセイが咲く季節になったら咲く花」程度の印象であり、秋の印象はカエデやらイチョウやらサツマイモやらに食われてしまっていた。

それでもキンモクセイの花が雨上がりの朝、ゴミ袋の上に散っているのを見ると、汚いなあと思うのと同時に、この季節が来たんだと思うようになった。

中学生にもなると公園で遊ぶことは無くなって、それ以来キンモクセイはほとんどちゃんと見ていない。

ついさっき、数年ぶりにと外に出て、キンモクセイを見た。相変わらず、ヘンテコなシャンプーみたいな匂いがしているけれど、記憶よりもっと低くなっていた。根っこの方が腐りかけていたから、もしかしたら、もうあんまり長くないのかもしれない。

ぼくの中でキンモクセイは、雨上がりに甘くて情けない匂いを撒いて、ゴミ袋にオレンジの紙吹雪を散らす、相変わらずちょっと汚い木だ。

結局、キンモクセイという名前が似合うと思ったのはあの時だけで、綺麗だと思ったことも、小学5年生のあの時以来、一度もない。

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