次郎長生家
寄り道しながら、たどり着いた次郎長生家!
ガタガタだった200年以上前の民家に、全国次郎長ファンからの寄付と静岡市の助成によって耐震工事をほどこし、無事に保存が決まったという、まさに聖地。
川を背にした縦長の立派なつくりで、中には当時の井戸や土間が。
鶴田浩二の次郎長三国志ポスターが貼られていたり、グッズが並んでいたり、さながら清水次郎長ランドの体
鼻息荒く見物していると、係の方がこれまた鼻息荒くマシンガントークで解説をしてくださった。
その中できいた印象的なエピソードをひとつ
時は明治元年、戊辰戦争の真最中。
奥羽列藩同盟に加勢しようと幕府軍の兵士をのせて北上していた三本マストの蒸気船咸臨丸。
その途中、嵐に遭って艦隊からはぐれてしまい、破損した船体の修理のため清水港に停泊していたところを官軍に取り囲まれ、海に飛び込んで三保海岸に泳ぎ着いたものもあったが白旗をあげて降参していたのにもかかわらず船内に残っていた者は全員斬殺、遺骸は海へと投げ込まれた。
港はまさに血の海。
それでも、遺骸を引きあげようとする者はない。
なぜならば当時、幕府軍は天下の逆賊
賊軍を弔う者もまた逆賊のそしりをまぬがれない。
漁師は漁にも出られず、領民はただその惨状を眺めていることしかできない。そんな中
次郎長は乾分数名をひきつれて小舟で海に出、遺骸を引き上げ、手あつく埋葬した。
それを知ったお上は次郎長を呼び出し、なんのつもりだ!と叱責するも次郎長
「死ねばみな仏だ
仏に官軍も賊軍もあるものか」
と官軍相手に啖呵を切り、納得させてしまった。
それを側できいていたのが、当時徳川家にしたがい駿府にくだっていた傑人、山岡鉄舟
当時の次郎長は十手を預かる二足草鞋。
市中警護のチンピラ程度にしかみていなかったが、その胆力と義侠心に感じ入り、幕府軍の墓に自ら
「壮士墓」
と揮毫し、立派な墓石をたてて手厚く葬った。
令和の御代になっても、線香の煙が絶えることはないという…
命をかけて筋を通した男次郎長
もうほんと、理想の上司ですよね〜
咸臨丸事件としてひろく知られるこの話、百数十年の時を経て、さらなる奇跡を引き起こします
ちょうど時間となりました〜
続きはまた次回
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