0モレスキン2

『中動態の世界 意思と責任の考古学』を読み始めました。コレハムズカシイワ。

虫賀です。

『中動態の世界 意思と責任の考古学』を読み始め、

どうしてこんなに難しい本を読み始めてしまったんだろう、という後悔に溺れているとき、この本が専門誌のコラムがベースになっていることが分かり、チラッと検索してみた。
そうしたら、この本の予習にちょうどいい論文のようなものが見つかり、コレならまだ読みやすいということで読み進めた。

その途中で、ふと頭に浮かぶものがあった。
昨夜見た映画の解説を読みあさっている時に、目にとまりつつも精読しなかった部分が浮かび上がったんです。
思い出せないので適当に書くと、俳優は役になりきってセリフを言うのではなく、セリフを言うことで役になっていく、というようなこと。
行為によって自分が変容していくんですな。

これと完全一致とは言いにくいけれどとても強く連想するものを、検索して見つけた論文のようなものの中に見つけました(これを共時性と言いたい、強く)。
以下転載(「中動態」としてのケア、「ハビトゥス」としてのケア 丹木博一より) https://www.jrc.sophia.ac.jp/uploads/2019/04/40.01_Tangi-Hirokazu-3.pdf
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「ミケランジェロがダビッドの像を作るという場合、
ミケランジェロは自分というものを失って、芸術作品が向こうから現れてこなければならない」と述べた。
この言明は、彫刻家が彫像を製作する場合、立ち現れてくる像が彫刻家に訴えかけ、
その呼びかけに促されて像を刻むという絶えざる相互関係の継続を示唆する。
「芸術の作品は芸術家の主観ではない。主観が主観を失って客観になることで、それが大事な点である。〔中略〕
向こうのものが自分を奪って客観化する」多くの行為は、行為の対象からの呼びかけに応える形で遂行されるのである。
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そしてそもそもは、論文のなかに見つけた、以下が書きたがったんです。
ケアをするにも、
①自分の身を切り離し、ただ対象を操作して状態を変化させる「冷酷に行う」介護と
②自分の身を持ち込み「他者にその存在根拠を与える」魅力的な介護との2つある、と。

これには驚かされたというかまったく発想になかった。たしかにそうだ。2つあるわ。
介護の経験はない私が書くのもアレだけど、これは対人関係でも仕事でもほぼ同じですな。

自分が「何かをする」「何者かになる」という願望が自分の行動を規定するのではなく、姿勢と行為によって何者かになっていくんだなぁ。
そして、①のような生き方をし続けるとどんな未来になるか、想像したくもない、と。

そうですね、こうして、自分の価値観が確認できた本日でありました。

私をサポートするような方はいないと思いますが、もしそのお気持ちがあるなら、私の次に読む投稿に対してお願いします。お気持ちに感謝いたします。