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目的は何か問い続けろ

手段を目的にしてはいないか?

準備初めたての頃、夫に訊ねられたことがある。
「君は"宇宙飛行士を目指している人"になりたいの?」と。
これは自分の中で結構ショックだったし、ということはつまり心のどこかでそんな気持ちがあったのだと思う。

「この参考書フォロワーさんにお薦めされて買ったんだよね」「今度YouTubeにゲスト参加させてもらえることになったよ」「最近スペースで情報交換してるの」「ES提出日にお疲れ様会をzoomでやるんだ」
たしかにどの発言も、心から宇宙飛行士を目指しているひとの言葉だとは思えなくても無理はないだろう。
(本来は発信力・表現力・リーダーシップ力を鍛える目的で自ら主催してやっていた、と話したら納得はしてもらえた)

夫は以前役者を目指して演劇学校に通っていた。その際役者を目指す人間も同じく少ないので、すぐに打ち解けて友達になる現象がよくあったらしい。
しかし演劇学校では首席をとらなければ事務所推薦はとれないらしく(推薦がとれてもデビューできるかはまた別だと思うが)、だからどこかで誰かを蹴落とすという選択肢をとらねばならない瞬間もあるそうだ。


宇宙飛行士なんてもっと目指す人数は少ないし、なにより13年ぶりの募集。興奮するのはわかるが、その仲良くしているフォロワー全員の上に立つという覚悟はあるのか?と問われた。自分が落ちたとき、顔も知らないそのフォロワーを心から祝福するのが君のやりたいことなのか?と。

恥ずかしながらここまで言われなければ、自分は"宇宙飛行士を目指すことのできる幸せ"だけを噛み締めて生きている愚か者だと気づくことができなかった。

遅ればせながらそこから火がついた。印刷して壁に貼ってあるボロボロの募集要項を何回読んでも、私以上に適任はいないと本気で思っている。
仲間のことを信じているからこそ言わせてもらう。宇宙飛行士には私がなります。


あなたは何者か?

ここからは私を応援してくださっている方をかなり不愉快な気持ちにさせてしまうかもしれないので、先に謝っておく。

YouTubeへ出演して以降、数多くのDMをもらうようになった。
「いつか自分も宇宙飛行士になりたいと思いました!」「目標に向かって頑張る勇気をもらいました!」だいたいはこんな感じ。これについては非常に嬉しいし、もっともっとこうやって宇宙や宇宙飛行士に興味を持つ世代が増えてほしいと思っている。


しかし私が気になっているのは、同じ立場である受験者からの「応援してます」「ファンです」。
これにものすごーく違和感がある。
私は受験者のことを仲間だとも思っているが、ライバルだとも思っている。同じスタートラインに立っているはずなのに、なぜあなたは応援席にいるのか?

また「最近モチベが保てなくて…」「自分なんてこんなもんで…」と異常なほど自分下げをする人にも疑問がある。
誰でも落ち込んだり疲れたり、壁にぶつかることはある。というかそんなの挑戦を続ける限りほぼ毎日だと思ってる。
ただし日々人の言葉を借りるとするならば、「諦めきれるんならそんなもん夢じゃねえ」。
自分が宇宙飛行士になった際、そんなネガティブな人とバディを組むのは恐ろしくてたまらない。
(もしかしたら私に対しても反対の意味で同じ感覚を抱いている人はいるかもしれない)

そんな弱音を吐くために宇宙飛行士へエントリーしたのか?提出した時の心の躍動を思い出してほしい。
きっと誰もがあの瞬間、自分が日本人初の月面着陸者だと確信したものだと思っている。


誤解を招くといけないのでもう一度言う。
私はみんなのことをかけがえのない仲間だと思っている。
宇宙が繋いでくれた宝物だと思っている。
しかしあえて仲間以上の目線で見るように意識し、「この人に命を預けられるか?」と常に考え、自分の心に従って交流している。
裏を返すと、友達ごっこをしたいなんて微塵も思っていない。
冷酷な人間だと思われるかもしれないが、人生は短い。自分にとって有益な人と付き合っていきたいし、自分もそう思われる人間になりたいと思っている。


Twitterを見ていると、この人は優秀だ、努力量がすごい、人柄もいい、とキラキラ輝いて見える人もたくさんいる。
しかしもし面接で「君とあの人、どちらかを宇宙飛行士にします」と言われた時、なんと答えるか?

それを一度考えてみてほしい。
きっと自分が何者だったか思い出せるはずだ。


補足だが、なにも「ポジティブでいろ」「弱音を吐くな」と言っているわけではない。私は能天気で悩み一つないポジティブ人間だと思われがちだが、そんな私でも1日1回くらいはへこむことがある。生きてれば当たり前だと思う。

ただ大切なのはそこではなくて、なぜ自分は弱気になっているのか?という視点だと思う。ギブアップなんていつでもできるし、それが自分の考えた結論であれば正しい選択なのだろう。

けれどそうでないのなら、自分をそうさせているもの(フロイト的思考)、あるいはそう振る舞いたいと思わせるもの(アドラー的思考)と、正面から向き合ってみてほしい。

敵は本能寺になんかいない。


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