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“私だけの”感覚を見つけるということ

「日々の生活の中で一日中SNSを見ない日があるという人は、一体どのくらいいるんだろう?」会社へ向かう電車の中、スマホの画面とにらめっこしている沢山の人たちを見つめながら、ふとそんなことを考えていました。

様々な情報やトレンドを瞬時に知れたり、普通に生きていたら決して知り合うことのなかった人たちと関わり合いを持てたり…改めてめちゃくちゃ素晴らしいツールだなぁと思う一方で、私たちの感受性を鈍らせてしまうものもまた、SNSだと思うのです。

誰かの写真を見たり、何かに対する誰かの意見を読んだとき、「良い」あるいは「悪い」と思う基準ってなんでしょう?

流行りのスポットの位置情報をインスタで調べると、そこに出てくる写真の構図がどれも似ていたり、とある事柄に対してツイッターに書き込まれた大量の意見が、テンプレートかよ!!と思うくらいに同じだったり、そういった事象を見ていると、少なからず、良い・悪いの基準に、「いいね!」の数や「リツイート」の数、一番初めに発信した人の認知度が反映されているように感じるんですね。

でもそれって、自分が本当に心の底から「良い」「悪い」と判断したものでしょうか?みんなが良いと思っているからこれが良い!悪いと思っているからこれは悪い!みたいに、無意識に自分より他人(いいねの数/話題性)を尊重して、個性がかき消される世の中になっている気がします。

みんなと同じって確かに安心できるけれど、それは反対に自分で考えることを諦めているということ。自分の良い・悪いの基準が分からなくなってしまうのは、「私」が「誰かのコピー」になるのと同一で、とても怖いことだと思います。私は、一人一人の中で熟考されて生まれたものに魅力を感じるし、そういうものをもっと知りたい、見たいと思う。

例えば、美術館や博物館に行ったとき、そこにある作品に「いいね!」や、それを観た人の「コメント」って表示されてないですよね?(そんなんあったら嫌や、笑)
目の前の作品と自分だけが向かい合う。外野の騒音が全くない環境で、自分の頭で考え、生まれた感情こそ、本当の私の感性だと思います。

コロナ禍の今、気軽にどこかに出かけたり、直接人とコミュニケーションをとる機会が以前より制限される中で、SNSを見る時間が増えたかもしれません。(私もいっぱい見ちゃう!><)
でも、ほどほどの距離感を保って、自分を見失わないこと。「へーそんなんやーええやん。」くらいの軽い感覚で付き合っていけたらなと。無理にトレンドの枠にはまろうとしない!別に大衆の意見に賛成せんでいい!隣の芝も青く見えんでいい!だって流行りはいつか終わるし、そんなインスタントに消費されるほど、一人一人の感覚は安っぽくないでしょう!!

一日の中で、他人の反応と離れた時間をきちんと作る。沢山の本から知識を得て、それについて自分の意見を書いてみるのもいい。できる範囲で外に出て直接人と会って話してみるのもいい。友だちや家族としょうもないこと話して、ガハハって笑う時間も大事。そういったインプット、アウトプットは、小さな画面を眺めて得られる何かより、遥かに純度が高く、ほかでもない「私」をつくっていくものだと思うから。

と言いつつ、初めに書いたようにSNSは素晴らしいツールだと思っているし、これからもSNSを使って自分を表現していきたい、沢山の人と繋がりたい。
ただとらわれ過ぎないようにね、というお話でした。

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明日もみんなの一日が、豊かでありますように。

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