ドイツにおける「コロナ前」と「コロナ以後」


                       明治大学教授 小西啓文

 筆者はいま、ドイツはミュンヘンに長期在外研究の機会を得て滞在している。すでに筆者は日本労働研究雑誌718号(2020年5月)及び労働問題研究所IWHR研究年報2号(2020年6月)においてドイツにおける新型コロナウイルスの状況について取り上げているので(本記事はこれらを踏まえつつその後の現状を報告する趣旨もある)、多くは繰り返さないが、久塚名誉教授の指摘の通り、当地でも「コロナ前」と「コロナ以後」で社会はガラッと変わった感がある。
 最も目立った違いは、マスクの着用についてである。ドイツ人は「コロナ前」は「マスクなど非科学的だ」とでも言わんばかりに、頑なにその着用を拒否しているようであったが、いまや、マスクをつけずにお店に入ったり、電車に乗ろうとすると、罰金がとられてしまうこともあって、マスクをもちあわせていない人を探す方が難しいくらいである。それこそ、制度が人々の意識を変えた好例ともいえそうだが、人々の変わり身の早さには正直驚かされた。
 それ以外にも、キャッシュレスでの決済が喜ばれたり、研究会がインターネットを介してなされるようになったなど、これらは日本でもみられる現象かと思うが、新型コロナウイルス禍によって求められた「新しい生活様式」なるものは、洋の東西を問わず、世界で同時進行しているようにみえる。
同じ建物に住むイタリア人研究者は、9月からの学期もネット配信になることを見越して、当地での滞在の延長を決めたそうである。わざわざ大学、さらには外国にいかなくとも、新型コロナウイルス禍を機に、いろいろな大学の講義を自由に聞けるような時代がもしかしたら目前に迫っているのかもしれない。そういう、ネットを通じた「個」の往来というものが(例えば大講義の再開はもうしばらく難しいのではないだろうか)今後ますます活発化することになるのだろう。
 もっとも、このような時代だからこそ、とでもいうべきであろうか、当地で人々の「連帯」に気づかされることが多かったのもまた事実である。3月に入って、筆者が住んでいるバイエルン州に引き続き、メルケル首相がドイツ全土での外出制限を発表した。これにより、買い物など「十分に説得力のある理由」がない限り自宅から出ることは困難になった。そういう困難さ(メルケル首相は「試練」といっていた)を我慢した人々のあいだに芽生えた「連帯」というものがあったのだろうか、「コロナ前」はよそよそしく扱われることも多かったが(ドイツ語が堪能でないからやむを得ないところもある)、最近はドイツ人も仲間意識的なものを若干示してくれるようになった気がする。「コロナ前」からの馴染みの店で「そろそろ日本に帰る予定だよ」と伝えたら、ドイツ人従業員から「Nein!」(「ノー!」)と言われたのは、ちょっと嬉しい出来事だった。
 最後に、やはりちょっとだけ学術的なことを付言すれば、ドイツの新型コロナウイルス対策が奏功している背景として、集中治療室(ICU)の病床数の多さがよく指摘されるようだが(この点久塚名誉教授はわが国における権威である)、もうひとつ、連邦制の存在も重要であろう。
 先に外出制限について触れたが、州政府の政策が連邦政府へ与えた影響については、すでにインターネット上で例えば大西孝弘氏の指摘(「ドイツ成功の陰に『州分権』」日経ビジネス[電子版]2020年5月12日)もあり、筆者がここであえて言葉を継ぐべき内容をもちあわせているわけでもない。ただし、同記事後、ドイツ西部のノルトライン・ウェストファーレン州政府が6月23日に、ドイツで4月後半から制限が段階的に緩和されて以降はじめて同州のギュータースロー郡を都市封鎖(ロックダウン)したところ、7月6日に、同州の上級行政裁判所が同州によるギュータースロー郡全体を対象にしたロックダウンを当面無効とする決定を下し、ロックダウンが解除されたというニュースに接した。これらはすでに日本で紹介されているものであり(日本経済新聞[電子版]2020年6月23日、同7月7日)、この一連の動きに対する日本での注目の高さが窺われる。
 日本社会保障法学会の大会で地方分権改革について報告した際に、久塚名誉教授にその司会をお願いした者として、わが国でも、地方分権や地域主権について、行政のみならず司法の役割を交えて論じる重要なきっかけをも新型コロナウイルス禍は与えているのではないか、と密かに考えている。

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