「新型コロナを巡る出来事」が教えてくれたコト(第一回目) はじめに
早稲田大学名誉教授
みゅぜぶらん八女 館長
久塚純一
はじめに
「新型コロナを巡る出来事」は、ざっと挙げただけでも、①「新型コロナウィルス・ゲノム」、②感染症、③公衆衛生と福祉、④観光立国(インバウンド)、⑤オリンピック、⑥感染確認の方法と情報、⑦グローバル化と国境、⑧国際機関の役割、⑨教育システム、⑩ダイバーシティー、⑪国と地方自治体、⑫NPO、⑬雇用・働き方、⑭経済財政問題、⑮格差・いじめ・DV、等など、多様なコトと関連付けされて語られている。個別のコトであるかのようなソレゾレの「事柄」が、「私たち全員に係る事柄」であるかのように語られるコトから、結果として、私たちは、「新型コロナを巡る出来事」から逃れるコトが出来ない存在であるかのように描かれることになる。ところが、これらの「事柄」の多くは、重要なテーマでありながらも、昨年末の時点では、「景気」や「オリンピック」との関係で周縁化され、それほどの表出はしていない。その意味では、「新型コロナを巡る出来事」は、ある時点まで「周縁に追いやられていた事柄」に「光」を当てる「出来事として」ある、というコトもできよう。すなわち、かつては、分断された個々人の「事柄」であるかのように描かれていた「諸々の事柄」が、「新型コロナを巡る出来事」として認識され、「構造的」に統合されたのである。「新型コロナを巡る出来事」は、もはや、「諸々の事柄」と並列的な関係にあるモノではなく、「総称化可能となった一塊の」、「抽象化された」、「諸々の事柄の上位に位置したモノ」として、「諸々の事柄」を統合するモノとなっている。さらに気をつけなければならないコトは、これらの「事柄」の多くに内在している問題点が、「新型コロナを巡る出来事」によって「禍として」浮き彫りにされたコトについてである。皮肉なコトではあるが、もし、抽象化された形としての「新型コロナを巡る出来事」(というモノ)が形成されなかったとしたら、個々の具体的な「事柄」の多くは、ソノママの状態で是認され続けていたかもしれない。
5月に入ると、いわゆる「新しい生活様式」が公表されるなど、「当面どうするのか?」、「コロナの後どうするか?」という「事柄」が、「新型コロナという出来事を巡る語り」に付加されるコトとなった。ココで鍵を握っているのは、当初語られていた①から⑮までに見られるような「事柄」と、あとから出てきた「コロナの後どうするか?」という「事柄」との関係である。コノ関係の「ありよう」は大きく二分される。「コロナの後どうするか?」という、あとから出てきた「問い」の「答え」として、ひとつは、出来る限り「新型コロナ禍が発生する以前の姿に近いモノに戻す」という「答え」を用意する型のモノであり、もうひとつは、「以前の姿とは異なる姿を提示する」という「答え」を用意する型のモノである。もちろん、両者ともに幅はある。その意味では、「新型コロナを巡る出来事」は、「結果としての姿」がどのようになるかは別として、私たちが「分岐点」にさしかかっているコトをも教えてくれるモノとしてあるのである。
もう少し付け加えておこう。ソレは、「結果としてのモノ」の善しあしは別として、ソノ「結果」に至る道筋は複数ある、というコトについてである。例えば、出された「結果」が「3」であったとしよう。その「結果」としての「3」というモノは、<所与の「3」と「5」>のうちから選択された「3」であるという場合もあれば、<前提としての「1」+「2」を踏まえた結果>としての「3」である、という場合もあるのである。「アフターコロナ」であれ、「ウィズコロナ」であれ、数年後の私たちの日常が、<所与のモノ>のうちから選択されたというような「姿」のモノとなるのか、あるいは、<前提としての「新型コロナを巡る出来事」を踏まえた結果>というような「姿」のモノとなるのか、私たちは「分岐点」にさしかかっているのである。
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