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7年間を振り返って①

気が向いたので書いていきます。
まずは高校時代。

自分がアメフトを始めたのは神奈川県立鎌倉高校FAKERSというチームでした。
中学までサッカーをやっていて、一応続けるかは迷っていましたが、サッカー部のレベルが高すぎて諦めました。
色々新歓には行ったものの、結局一番楽しかったアメ部にお世話になることにしました。今思えば、新歓で楽しくさせて入部させるのは常套手段なのですが、まんまと騙されたわけです。
当時は172cm61kgくらいでした。背番号は#63.ポジションはOL/DLとなり、まあホントに楽しくありませんでした。なぜなら身体ができていないので、当たり勝てることがまずないからです。パスラッシュができるDLがまだ少し楽しかったかなというくらいでした。
そんな中唯一の生きがいがパントとキックオフでした。アフターの時間でボールを蹴り、まあまあスパイラルもかけられるようになり、練習すればするほど飛距離が伸びるのが楽しかったです。
ただ一年秋の試合で手を折ったり、足首を痛めたりと次第に蹴る機会が減っていってしまいました。
とはいえキック全般が好きだったので代替わりで最終学年となってからは一応名ばかりですがキックリーダーなんてものにはなっていました。アサイメントはコーチが考えてたので、やることは相手チームのスカウティングくらいでした。
このくらいからは次第に身体が出来てきて、ようやくアメフトが楽しくなってきました。3年春の最後の大会前くらいが最高で178cm/88kgになっていました。ポジションはOLではOG。DLでは3テクがメインでした(元々Eでしたが重いやつがいなくなってしまい、自動的に移動しました)。
一応神奈川一位を目標に掲げ、最後の一年を迎えた訳ですが、勝利は2年秋シーズンの合同チームに6-0で勝ったのが唯一だと記憶しています。
そんなこんなで最後の大会を迎えました。組み合わせの運もあり、グループでの1戦目2戦目に勝利しました。次勝てばベスト4というタイミングで、練習中(確かKCのアボイド練)に右手の中手骨がバッキリ折れてしまいました。そんなこんなで迎えた鎌倉学園戦はぐるぐる巻きのアンパンマン状態でした。なので、OLとKRは出ず、DLで頑張ろうということになっていました。ところが前半に0-8となり、後半はOLでも出場することになりました。すると最初の2シリーズでラッキーも重なり、ほぼランだけで2TDを獲得し、14-8と逆転し、そのまま逃げ切りました。
ここからコーチ陣がハイライト動画を作ってくれるようになっていました。たぶんまだ見れると思います。

さて次は準決勝法政第二高校戦です。これがまあ最高の試合でした。この試合はLB起用で1.5戦目からランなら突っ込んで、パスならフワフワしとけという感じでパスカバーなんぞ知らんままやっていました。一番面白かったのは「ムサぼう」というサインで、5.0.5で外から自分が1人でブリッツするというアホサインでした。でもこれが面白いように決まりまくり、最高に楽しかったです。スペシャルプレーも決まって逆転勝ちし、なんと関東大会出場が決まりました。

次の決勝戦、慶応高校戦では歯が立たず、負けてしまいました。目標は達成できませんでしたが、OLがクソデカくて強くて楽しかったなという記憶だけあります。

てなわけで関東大会です。確か22年ぶりの出場とかいう話でした。神奈川2位だったので2回戦からで、相手は東京1位、佼成学園高校でした。結果から言うと0-60。惨敗でした。この試合でやっとアンパンマンから解放され、右手が使えるようになったわけですが、まあ痛いし対して意味はありませんでした。むしろアンパンマンの方が痛くなく、思い切り当たれた説はあります笑。3テクではなくEで出場し、ラッキーのロスタックルはありましたが、特にパスプロがレベチで相手が1本目の間はQBの野沢君には指一本触れられませんでした。後半相手がメンバー落としてからは3テクに戻り、何度かはQBにも届きましたがそれくらいでした。一番の思い出はFGをブロックしたことくらいです。
そんな感じで清々しく負けて引退となりました。ハイライト動画もございません。一応秋まで残ってやるという選択肢もありましたが、正直身体が持たんという感覚だったかなと思います。残りの高校生活文化祭もあるし楽しもうみたいな感じでした。
ところが不思議なもので、引退して1週間も経つとまたやりたくなるものです。(なんか前歯2本折れてたりして、できる状態じゃなかったですが笑)てわけで、大学をどこにしようかと考えたとき、まずアメフト強いとこどこだろうというとこから始まりました。

今日はこんなところでまた次回。

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