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7年間を振り返って⑥

さてさてずいぶんさぼっておりました。すみません。
今回は学年が変わった2年生春シーズンのお話です。甲南大学戦から始まり、横浜国立大学戦、京都大学戦、JVの関学戦と続いたように記憶しています。思い出深かったのは京都大学戦で、人がいなくてOLの回しが無いプラス初めてKC以外の全てのキックで1枚目として出場することになった試合でした。暑さと試合前に飲んだ野菜スムージーが苦くて気持ち悪すぎたせいか、口の中まで上がってくるものを溜め込みながらやり続けたことを覚えています。死ぬかと思いました。CBでフル出場しながら全部のキックに出続けていたあの先輩はマジで化け物だと思いました。この試合の最初のプレーでプルを逆に飛び、ごっつんこしたのは笑い話にもならないひどい思い出です。そんなこともあって、プルを良く練習した結果、逆にJVの関学戦ではQB P.C.かなんかで上手く弾けて一発TDが生まれたのは良い思い出です。この試合はJVながらも神戸が関学に勝ったということで少し話題になった気がします。
この頃になると、DLへの願望は淡くも消え去りつつあり、OLとして頑張ろうと僅かながら思い始めていたように思います。しかし、その関学戦後の練習で、左手の甲を骨折してしまいます。全治一ヵ月ほどとの診断でした。
そうして次の龍谷大学戦を怪我人として迎えることとなってしまいました。しかし、ここで大きな転機が訪れます。「キッキングのコーラーをやってくれないか」と声をかけてもらいました。コーラーとは試合中、状況に合わせてサインを入れる役割であり、キックはオフェンス、ディフェンスに比べれば圧倒的に考えることは少ないですが、通常、5回生のコーチや、4回生の怪我人などが任せられるものでした。それをこんな生意気な2回生に任せていただけるということでめちゃめちゃ光栄なことだと興奮してました。「頑張ってみます」と引き受けました。
とは言え春シーズンなので、大したサインも無く、難易度は高くはありませんでした。ただ、状況を判断して、素早くメンツを決めなければいけないので、「どっちやねんはよせい」と急かされたりもありながらとにかく必死でした。そんな中でも、確かPRでラッシュサインが刺さって、ブロック&TDが生まれ、その時はめちゃめちゃ爽快な気分でした。アメフトってプレーするだけが全てじゃ無いなと思えた瞬間でした。インカム付けた写真が残ってないのが残念です。
次は中央大学戦でした。これは関東への遠征で初めて親が試合を見に来てくれたわけですが、残念ながら怪我人でした。すみません。この試合はJV戦で、ODKのサインやゲームプランを全て3回生以下で考えてやってみろという試合でした。4回生が就活でほぼいないからという理由もありました。そういうわけで、キックのサブリーダーでありましたので、その中で話し合ってKRを担当することになりました。
せっかくなので面白いことやろうということで、かのJACK sixというサインは生まれました。1人レベチで速い人がいたのでその人をいじめようというコンセプトでした。後にHulabowlに選ばれた方でした。ただ、実際試合では向こうもJVだったからでしょうが、全く違う人で不発に終わりました。名前のダサさも相まってしばらくいじられ続けました。
その後、アサヒ飲料、桃山と続きましたがあまり記憶がありません。その間はリハビリに明け暮れ、怪我が手だったこともあり、BSQをやりまくってました。確か160×4でメニューが組めるようになり喜んでいた気がします。同時に体重が100kgを超えました。運動量が減っていたこともあり、食えば太る状態で調子に乗っていました。怪我前で94〜5kgだったのに、1ヵ月ほどでの増量でした。これが悪因でした。
怪我も癒え、リハビリが進んで、7月中旬、晴れてシステム復帰となりました。それから数日後、確か左のスピードオプションでした。自分は右のOTで、バックサイドのダウンフィールドをしていました。キャリアに向かうLBに身体を入れようと右足を踏み込んだその時、左側から来たプレイサイドのOLと接触する形となり、「バキッ」と音が鳴った気がしました。自分の中で、生物として生きて行くための何か大事なものを失った感覚に陥りました。右膝に一瞬の激痛が走ったあと、力が入らなくなりました。タンカで運ばれました。右膝前十字靭帯(ACL)の断裂でした。

今回はこんなところで、また。

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