名曲「悪党の詩」

僕はあまり悪事に縁がない。

嘘や偽装、ごまかしを少々嗜んで、後はお行儀よくこの体を大きくしていった。そんなに大きくはならなかったけど。

小学生のころに熱心に取り組んだ。塾の宿題では巻末の答えを写し、親にやったと報告した。でも、バレる。ひどく叱られる。叱られた分だけ泣いた。バレたせいで怒られたと思った。もっとバレないようにやりたかった。

それからというもの、嘘一つ吐くのにもリスクが伴うことを知った。こういう場合にバレそうだな、こんな状況だと足がつくな、なんて考えてるうちに、正直でまっとうに生きる方が楽で安全だということに気づいた。

つまり、悪さをする前にいろいろ考えているのだ。悪さをした後に誰かに責められやしないか、今後の自分の生活が脅かされやしないかを何よりも気を付けていたんだろう。

悪党の詩の歌詞には、そんな逡巡が全くないように思われる。これは僕がこの曲に惹かれた理由の一つだ。(全部で二つある)

内容としては、おそらく歌詞中の「悪党」の随想を歌ったものだろうと僕は解釈している。歌詞の一文一文に前後とのつながりがなく、彼の考えやある記憶の中の状況が言及されている。ぼんやりと考えたようなとりとめのないことで、それが彼にとってまるで重要ではないように読み取れる。

中盤には彼の仲間を示すであろう「みんな」に向けてメッセージを送っている。その後の部分をぜひ聴いてみてほしい。ゆったりとした調子で進行するこの曲を非常にシリアスなものにしている。(専門用語を何一つ知らないので大半がふわふわした表現になっていることを謝罪する)

惹かれるもう一つの理由として、歌手D.Oの歌い方を挙げる。

2,3曲を調査した限りでは、D.Oは「悪党の詩」以外でもこの歌い方をしている。wikipediaによると、D.OはヒップホップMC(wikipediaによるとmaster of ceremoniesの略)であり、2020年9月18日現在は服役中とのことだ。ちゃんと悪党である。

人をからかっているかのような、気の抜けた返事のような歌い方をしており、話の焦点が見えない歌詞とよくマッチしている。歌詞と歌い方によって、この曲はまさしく悪党を表現している。

悪党が悪事を働く際にはみんなこの曲のようなメンタリティを多かれ少なかれ含んでいるのではないだろうか。これから自分がやりたいことは危険で、大騒ぎになるかもしれないが、それはやらない理由にはならない。多くの人を傷つけ、悲しませるようなことになっても、やらない理由にはならない。その先で自分の身に降りかかるかもしれない脅威や行動したことによって生じるリスク、追及される責任。やりたいことを前にして、これらを考えてもしょうがないから、考えないのだ。僕は、これが悪党に感じる強さの源泉であるように思う。

威嚇は暴力を使用しないための交渉技術である。力を込めた発声によって相手を威圧し、危険を冒さずして有利に事を運ぶ手段である。この技術を見た目や人数に派生させ、反体制を誇示するかのように大いに力んで闊歩する人々を見かけることがある。しかし、本物の悪党は、威嚇しないのではないだろうか。「悪党の詩」のように、一切の力みなく、躊躇なく暴力をふるうのではないだろうか。歌詞と歌い方が悪党を表現しているといったのは、以上のような理由からである。

これは僕の完全な想像だが、この曲を聞いて生まれた想像である点で多少の意味があると考えている。初めてこの曲を聞いたときに少なからず恐怖を覚えた。自分の中の悪党像が引き出され、その危険性をまざまざと見せつけられた感覚に陥ったためだ。だがそれと同時に、この反社会的な人物像に大声では言えない魅力を感じたことも事実なのだ。

「悪党の詩」は、Youtubeで視聴することができる。投稿者が公式アカウントではなさそうなので、URLを記載することは憚られるが、サイト内で「悪党の詩」と検索すればすぐにヒットする。僕はYoutubeで偶然動画を見つけ、タップして3分後には自分用の再生リストに追加していた。

ネット回線を介さずにこの曲を聴くために、悪党なら躊躇せずに違法ダウンロードしただろう。しかし、悲しいかな、小市民である僕はiTunes storeでダウンロードした。255円。安全で社会的な生活のための、ささやかな保険料である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?