現役復帰までの道のり〜明日葉がサッカーチームのスポンサー。明日葉と仕事の日々〜

明日葉との出会いは、23歳の時。たまたま近くに居酒屋が新しく出来ると聞いて、オープンの日に行きました。

オープンした時はこんな感じでした。


ここの料理のオススメはなんといっても、生春巻きなんですよ。

この生春巻きがめちゃくちゃ美味しい笑

この生春巻きには、味だけではない思い出がたくさん詰まってるんです。

例えば、23歳で就職した時にお祝いもここでしてくれたのですが、同時に待っていたのは労働環境だった。この当時、朝8時に出勤して定時は17時頃だったのだが、実際働いてみたら最初は8時から20時まで。そして徐々に23時までになったり、家に着くのが深夜2時になったり、仕事が深夜の0時ごろに終わるときは家で母親がご飯作ってくれてはいたけど、途中でお腹が空きすぎてて、すき家に寄って大体深夜1時くらいにご飯を食べる時もあった。

当時はこれが社会ってものなんだなぁと思ってはいたのだが。ただ、自分が本当にやりたいことがこのままできなくなってしまうと思い、ここの会社を1年で辞めて、次の会社では派遣で登録したら、バイト雇用に変わり、社員への道も見えてた会社ではあったけど。正直これが自分の精神状態をおかしくするくらいの出来事になるとは思わなかった。そういう嫌な出来事などがあった時も寄ってたお店で、本当にここの店長や飲み仲間には良くしてもらってた。

次の会社では、2年目にラインオペレーター業務のリーダーを任され、ポジションの配置、時間配分、人を動かす立場の役割を任されたのは良かった、この時25歳だった。ただ、ここでのリーダーは本当に嫌な思い出もあったけど、自分の仕事の基盤は実はここにある。

話は逸れるが、このリーダー職で活かしたことは高校生の時に生徒会をやっていたときの文化祭の準備のスケジュールの立て方だった、いつまでに準備が整ってればいいの?っていうのをこの仕事に置き換えると1日の流れをどういう風に持っていくのか。例えば作業終了時刻を17時と設定した時に、17時に終わらせるためにはどのように人を配置していって、どのようにみんなのモチベーションをそこに持っていくのか?モチベーションの持っていき方は、高校生の時ユースチームでキャプテンをやっていたのと、大人になってコーチもやっていたので、活きた。そして、仕事も慣れてくるとマンネリ化していくところもあったので、同じパターンではなく違うパターンを作ってみたり、最終的にはポジションはみんなに任せてみるなどやってみた。

実はこのリーダー業務の最初はかなり上手くいった方で、自分も調子に乗ってしまった。ただ、最悪だったのはこの後だった。自分の仕切ってる現場を今度は全員初心者にして毎日指導をしなければいけない状況、当然その日に来る人達は時間でお金さえもらえれば良いというモチベーションで、どのように持っていって良いのか正直わからなくなっていて、数字も悪くなり、責任者には怒られるどころか、脅され、人格も否定されていくようになっていった。

実はこの状態で県内の2級試験の筆記は初めて合格はしていたけど、実技に完全に影響が出てしまってた。更には、2級試験に関しては受かって当然、完全に来年は2級で2年後には関東で笛を吹くという風にも見られていたからだった。なぜならこの年の4月に千葉県U18リーグ1部の首位攻防戦で2年前まで両チーム共関東プリンスリーグに所属していた対戦カードも無事に終わらせて、自分に自信がついてた中だから、少なからず自分にプレッシャーは感じていた中だった。割り切ってはいたが割り切ることができずに実技1発目の試験の翌日の仕事中にパニック障害を起こして、仕事を早退。そして、2発目の試験まで気持ちを整理しなければいけなかった。

2発目はいつも通りに上手くいったけれど、問題は3発目だった。

3発目の試験の直前に今度は家族でトラブル、家庭内戦争が起きてしまったのだった。なぜなら父親が病気とは言っていたけれど、お酒、睡眠薬。睡眠薬をお酒で飲んでしまっていて精神状態が明らかにおかしくなっていたのだった、それを見た弟たちは怒ってしまい、更には父親としての自覚があまりにもなさすぎたりしたのが見えてしまったのだろう。当時はお皿が投げ込まれたり、書けれるのはこの程度であとは書くことが厳しいので書きませんが、それくらいきつかった。

そんな辛い時でも、いつも明日葉に行って全てを忘れて飲みに行ったりしていて、みんないつもアットホームのように迎えてくれたのだった。そして、いつものように生ビール、生春巻きを食べて後は適当なメニューを頼むのが日常だった。

その後に親は離婚、そして3番目より下はお母さんの苗字で俺と2番目だけは親父の苗字だった。これはお母さんの気遣いでもあった、なぜならこの時に俺の苗字を変えるとなると自分がサッカーの活動に支障が出てしまうことを考慮しての事だった、本当なら母親は一緒に連れて行きたかったくらいだったらしい。

実は、就職してから家に10万円くらいは入れて家計を支えていたからだった。実は名古屋のチームを断ったのはこういう状況だったからだった、正直すげぇ行きたかったし、小さい頃からの夢が叶う可能性があったけど、なるべく親の負担を減らすためになるべく千葉県もしくは関東圏内のチームを選んでいた、名古屋のトライアウトを受けたのは、ほぼ挑戦だったからねぇ。

その時は生活するってことが頭になくて、完全に計画性のなさだったけどねぇ。

パニック障害の後に、CJ(zozo)で3年半バイトを務めた。ここでの時間は自分にとって一番必要な時間だったと思う、みんなで出かけたりすることが出来て、正直20代で失われた時間は取り戻せた気がした。そして、この時期に個サルにも参加するようになり、そこで良い出会いがあって人間として成長させてくれた存在がいて、自分の人生が明るくなっていきました。

そして、チームスポンサーになってた明日葉。次回は復帰する経緯を話していきます。最終章になります。


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