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【書評】A・カミュ「異邦人」|ムルソーと世界のギャップが産んだ不条理

画像出典:A.カミュ 「異邦人」窪田 啓作訳(新潮文庫)

先に注意書きです。本noteでは異邦人を読んだことのある人を想定しているので、どんどんネタバレしていきます。

僕がこの「異邦人」に出会ったのは19歳の時で、初めて読んだ時は衝撃を受けたのを覚えています。
あらすじを振り返りましょう。この小説の主人公「ムルソー」はピストルでアラブ人を射殺し、逮捕された後の裁判では殺害の理由として「太陽のせいだ」と述べます。そして彼は死刑を言い渡され、多くの人々に罵声を浴びせられながら死を迎えることを願い、物語は獄中で終わる…
そんな救いようのない小説です。

多くの人は、ムルソーの言動に疑問しか残らないでしょう。僕も1回読んだ時点では、不可解な点しか残りませんでした。
ですが繰り返し読んでいくうちに、僕は彼の強力なキャラクター性に惹かれていきます。

このムルソーも、著者であるカミュの思想も、カッコいいんですよ。

このnoteではムルソーとカミュの思想についてまとめていきます。

ムルソーという人間性について

主人公ムルソーの人間性は、考察すればするほど奇妙です。そのように感じられる場面を、一部抜粋します。

「自分の母親の遺体の前でタバコやミルクコーヒーを楽しむ」
「母親の葬儀で涙を流さない」
「『(大切にしている)犬がいなくなってしまった』と相談に来た知人の話に対してあくびをする」
「(あくびをされた知人がムルソーに対して)もう帰ると言うと『まだ居ていい。犬の話に飽きただけだ』と返事をする」
「私のことを愛していないのかどうか恋人に尋ねられて『愛していない。だが君が私と結婚を望むならそうしよう』という」
「ふとしたことがきっかけでアラブ人を殺す」
「裁判で殺害の動機として『太陽のせいだ』と主張する」
「処刑の日、罵声を浴びせられて死ぬのを楽しみにしている」

これだけ引用すると、奇妙どころではなく、狂っているといっても良いかもしれない。
しかし彼は別に狂人ではないし、殺人を好むサイコパスでもない。

友人とはしゃいでトロッコに飛び乗ったり、彼女と海で遊んだり、他人によく思われたいという理由で手紙の代筆を引き受けたり、誤解を受けた時に弁明したがったりなどなど。
人間らしい感情が抜け落ちたロボットでは決してないんですよね。

それでは何故、彼は死刑を言い渡されたのでしょうか。後ほど解説しますが、ムルソーが社会的制裁を受けたのはアラブ人を殺したからではなく、「彼が母親の葬式で涙を流さなかった」ことだったり、「母親の葬式の翌日に女と楽しく遊んでいた」ことだった。
よって彼は危険因子と認識され、死刑を言い渡されたわけです。
ムルソーという「人間」と、取り巻く「世界」のギャップが、「不条理」な結末を産んだんですね。

そうして社会的に異物だとされたムルソーを物語では「異邦人」と言い表しています。

それでは、なぜ彼は異邦人なのでしょうか?
彼を異邦人たらしめているのは、彼自身の気質ではないかと思っています。

その気質の1つが「決してうそをつかない」こと。
ムルソーは、嘘を、つかない

例えば彼女であるマリイから「私を愛していないの?」と尋ねられて「愛していない」と答えるシーンもそうです。
そしてムルソーが捕まった後、彼の弁護士は、彼が母親の葬式で涙を流さなかった点について追及されると不利になると考えました。
事実、物語はそこについて追及され、ムルソーは冷酷な殺人犯という印象に持っていかれてしまいます。こうした流れにならないよう、彼の弁護士は対策を考えていました。

彼(弁護士)は、その日私(ムルソー)が自然の感情をおさえつけていた、といえるかと尋ねた、「言えない。それはうそだ」と私は答えた。

A.カミュ 「異邦人」窪田 啓作訳(新潮文庫) 

人間は生活を円滑にするために嘘をつきます。
例えば、友人や同僚との会話で「あなたの料理はとても美味しいね」と言うことがあります。このような場面では、相手の料理が実際に美味しいかどうかにかかわらず、相手を喜ばせたり、良好な関係を保つためにこのような言葉を使うでしょう。
特に、相手が一生懸命に作った料理や作品などに対しては、感謝や労いの気持ちを表すために、多少の誇張や嘘を交えてでも褒めることが多いと思います。

ムルソーはこうした嘘をつきません。この点については、「異邦人(窪田啓作訳)」の解説に、カミュ自身が「異邦人」の英語版に寄せた自序(1955年1月)で詳しく述べられています。


……母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。
(中略)
彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在することと、感じることとの真理である」

A.カミュ 「異邦人」窪田 啓作訳(新潮文庫)

ムルソーが嘘をつかないのは、「本当のこと」に固執していたから。
世の中の多くの人たちは、真理に対する情熱なんてないですし、人間関係を円滑にするために、事実を曲げてコミュニケーションを取ります。しかしムルソーは、事実を曲げません。
これはムルソーが「人間関係などどうでも良い」と捉えていたわけではなく、単に真理に対する想い入れがそれを上回っただけだと思うんですよね。言い換えれば、本人の価値観の違いであり、優先順位の基準が他人と異なっているということ。
他人が「人間関係を優先しろ!」と強いるのはお門違いです。
宗教論争と同じなんですよね。

ムルソーのもう1つの気質として「物事を受け入れる」というのがあります。
後述した通り、結果としてムルソーは冷酷な殺人犯のレッテルを貼られ、死刑を言い渡されます。
それでもなお、ムルソーは妥協しません。
普通なら、死刑を免れるためにいくらでも嘘をつきそうですが、決してそんなことをせず、彼は死刑という結果を受け入れます。

監獄の不自由さについて苦しむ様子は見られても、それに対してはすぐに順応していますし、死に直面してうろたえることがないんですよね。

そしてムルソーが監獄にいる間、彼のところにキリスト教の司祭がやってきます。
司祭が死刑囚を尋ねるのは、「精神的な支え」や「悔い改めの機会」を提供するなどの目的があります。死刑囚は、死刑執行前に強い不安や恐怖を感じることが多いので、司祭は祈りや聖書の言葉を通じて、心の平安を与えようとします。
また、死刑囚に対して過去の罪を悔い改める機会を提供し、神からの赦しを求める手助けをします。

ですがムルソーは「祈りなどするな、消えていなくならなければ焼き殺すぞ」「君の考えは女の髪の毛一本の重さにも値しない」と、司祭の話を突っぱねます。

他人の死、母の愛──そんなものが何だろう。いわゆる神、ひとびとの選びとる生活、ひとびとの選ぶ宿命──そんなものに何の意味があるだろう
(中略)
人殺しとして告発され、その男が、母の埋葬に際して涙を流さなかったために処刑されたとしても、それは何の意味があろう?

A.カミュ 「異邦人」窪田 啓作訳(新潮文庫)

最後まで自分の信念を通し、死と向かい合った。

このあたりから僕は「ありのままを受け入れる」という、仏教的な態度も感じられました。
仏教には「すべてのものは無常であり、常に変化している」という教えがあります。このため、現実をありのままに受け入れることは、変化を自然なものとして受け入れることと同義です。
変化を拒絶せず、受け入れることによって、私たちは苦しみから解放されることができるということですね。
仏教では、変化を受け入れることで心の安定を保ち、執着を手放すことが強調されています。
それができれば、たしかに僕たちは救済されるかもしれません。


カミュの「不条理」と「反抗」について

「不条理」とは異邦人の著者カミュの哲学の中で重要な概念です。それは異邦人の物語の中でもよく表現されているのではないでしょうか。
主人公ムルソーの行動そのものも不条理と感じるかもしれませんが、物語ではムルソーのたどる運命そのものが不条理を示しています。

というのも、ムルソーをめぐる裁判では、アラブ人を殺したことではなく、それ以外のことで責め立てられ、挙句の果てに死刑を言い渡されていますね。

先ほど「ムルソーという『人間』と、取り巻く『世界』のギャップが、『不条理』な結末を産んだんですね」と記しました。これは要するに「社会とは外れている」という理由だけで死刑を言い渡されているわけです。

また、「不条理」と同じくカミュの中の哲学の1つに「反抗」というのもあります。これはそのままの意味で、不条理に対して人間がどう反抗するのか、という考え方です。

カミュの著作で「異邦人の解説書」とも呼ばれている「シーシュポスの神話」では、不条理に対する向き合い方について述べられています。
カミュは不条理に対して絶望して自殺するのでもなく、宗教やマルキシズムにハマるのではなく、ただ否定し続ける姿勢が「反抗」だとしています。

カミュの反抗的姿勢はムルソーの言動にもしっかりと現れています。
異邦人の終盤シーンで死刑を言い渡されたムルソーは、獄中の中で死を待っていました。そこに司祭が現れ、ムルソーに対して神への信仰について語ります。先ほど解説した通り、ムルソーはこれを突っぱねているわけですが、カミュ同様、宗教への信仰は「哲学的自殺」というのがここで現れているのではないでしょうか。


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