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あた~まわ~るわ~るわぁ^~る~わるぅ^~

 

突然だが、みなさんはこう思ったことはないだろうか。

 「俺(私)、頭悪くね?」

 そんな経験などないというあなたは非常に優秀であり、こんなカス文章など読んでる暇があったらその優秀な頭脳をより生産的な営為に使うべきである。

 しかし、奇遇にも私と同じ経験がある方、あるいはこれから経験する可能性がある方に、私は「頭わるわる的生き方」を提案したい。「頭わるわる的生き方」とは、頭わるわる学の理論から導き出される、頭わるわるな生き方である。そのまんまである。この文章がそのための参考となれば幸いである。

 自己紹介が遅れたが、私は「東京大学頭わるわるサークル」というサークルで新歓担当を務めている、迫真東大生という者である。けったいな名前だと思われた方は、とにかく何かが迫真な人と認識していただければ問題ない。この名前を見て嫌な予感がした人は、私の同志である可能性が高いと思われるので、是非最後までお付き合い願いたい。

目次
1 頭が悪い、ということ
 1.1 頭が悪い=知能がない、ではない
 1.2 頭わるわる相対性理論
2 無知の知
3 悪人正気
4 頭わるわる学の実践 <あた~まわ~るわ~るわぁ^~る~わるぅ^~>

1 頭が悪い、ということ

1.1 頭が悪い=知能がない、ではない

 頭の悪いライフスタイルを提案する前に、まず、「頭が悪い」、という言葉の意味を再確認しなければならない。頭が悪いということはどういうことであろうか。「知能がない」ことである、という人もいるかもしれない。(この文章でいうところの知能とは、「論理的に考える、計画を立てる、問題解決する、抽象的に考える、考えを把握する、言語機能、学習機能などさまざまな知的活動を含む心の特性のこと」というごく一般的な意味での知能と考えることにしよう。)しかし、次のようにも考えてみて欲しい。


 例えば、頭わるわる学研究の創始者であるニョン・ナズーリニウス氏(810〜893)は次のように述べている。

「アイスティーやいなり寿司は、ごく一般的な意味では『知能を持っている』ということは非常に珍しい。だがアイスティーやいなり寿司が『頭が悪い』という言い方をする人間は地球上に存在するであろうか。いたとすれば、その人はきっと自分自身の腕や足、肋や耳たぶ、小腸やもみあげにも「頭が悪い」と言うのであろう。
(ニョン・ナズーリニウス著「チキ・ンラー・メン・オア・パン」より)

 そう、知能がそもそもないと考えられるものに対して「頭が悪い」などとは普通言わない。 逆に言えば、「頭が悪い」と言うことは同時に、知能の存在の証明でもあるのだ。

 1.2 頭わるわる相対性理論

 1.1を読み終えた読者からの「ふざけんじゃねえ」、「バカにすんな」、「お前頭悪いだろ」という声が手に取るように聞こえてくるようだ。確かに私は頭が悪いので何も言い返せないが、この章の本題はこ↑こ↓からである。


 「知能をもつものの中で」頭が悪いと言うことの意味を考えよう。
1.1で、頭が悪いということが、知能があるかどうかという絶対的な問題ではないことが確かめられた以上、知能があるものの中で他と比べてどうかという相対的な問題であるということになる。


このことに基づいて、頭わるわる学研究の第一人者、アノベルト・カイーシメタイン(1919〜)は頭わるわる相対性理論を打ち立てた。カイーシメタインは頭わるわる相対性理論の説明として次のように述べている。

 人間は他の生物よりも賢い、と一般には言われる。脳化指数の観点では、確かにそうかもしれない。だが私は、イルカのように機械なしで超音波を出し合ってコミュニケーションをとることができる人間を知らないし、渡り鳥よりも道に迷いやすい人間は大勢いるだろう。知能とは、頭の良さとは、相対的なものだし、多面的なものである。
何も他の動物と比べなくとも、農業、漁業などの第一次産業的な知識、技能に長けた人より、工業や商業などの第二次、三次産業的な知識、技能に長けた人の方が知能が高いと言う人がいたとすれば、それは愚かな考えと言える。
 『頭が悪い』ということの多くは、非常に多面的な知のあり方の中で、たまたまその者の知性が特定の分野に対応していなかったことから生じているに過ぎない。

(アノベルト・カイーシメタイン著「カイーシメタインの原論文」より)

 つまりカイーシメタインは、「頭が悪い」という現象は、数多くある知性の中の特定の知性に対する振り分けが相対的に小さかったことから生じるに過ぎず、絶対的な頭わるわるは存在しないことを主張した。これがカイーシメタインの頭わるわる相対性理論である


 カイーシメタインの理論は後の頭わるわる学の基礎となっており、もはや頭わるわる学を専攻していない者にとっても常識となっているので、読者の皆さんも是非、この言葉だけは覚えて帰っていただきたい。



2 無知の知

 頭わるわる学的知見は、頭わるわる学という言葉が生まれるはるか昔から存在していた。その一例が、かの有名なソクラテス(B.C.469頃〜B.C.399)が提唱した、「無知の知」の概念である。「無知の知」については、博識の皆さんには最早説明不要とも思われるが、「自分の知識は世界の全てを知ることができない不完全なものである点で頭わるわるだが、そのことを自覚している点で自分を頭ガチプロだと思っている他の知識人よりもわずかに優れている」というソクラテスの考えに由来する概念である。


 1章で述べたように、知のあり方は非常に多面的なものであり、この世の全てを知ることができないのは当然である。誰もがある点においては頭わるわるであると言える。しかし、自らが頭わるわるであることを自覚しているならば、その「無知の知」はいかなる「頭ガチプロ」にも得ることのできない貴重な財産である。


 このことを紀元前から指摘し、迂闊にも頭わるわる学における基本的な概念を提唱してしまったソクラテスは最高に頭わるわるであると言わざるを得ない(称賛)。

3 悪人正機

 他にも、頭わるわる学にうっかり多大なる貢献を果たしてしまった偉大な人物がいる。私のTwitterでも軽く話したことがあるが、浄土真宗の開祖、親鸞聖人(1173〜1263)は、「悪人正機」という考え方を提唱している。悪人正機とは、「悪人こそ救われる」という浄土真宗における重要な考え方であるが、ここで大切なのは「悪人」の解釈である。ここでの悪人とは、もちろん頭が「悪」い「人」のことである。つまり「悪人正機」とは「頭わるわるな人こそ救われる」という意味である。頭わるわる万歳!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!












嘘 だ よ

 流石に当たり前だよなぁ?。これから本当の解説をするから見とけよ見とけよ〜〜


 「悪人正気」において親鸞が説いた善悪とは法的・道徳的な善悪、また、世間一般で言う所のいわゆる「善悪」などを指しているのではなく。「阿弥陀仏の視点」での善悪である。阿弥陀仏の視点では、生きとし生ける全てのものは完全に善悪を判断することができない。ゆえに、どんなに社会で善人とされる者でも小さな悪は行ってしまうし、仏はどんなに小さな悪でも見逃すことはない。よって仏からすれば、全ての人が「悪人」なのだと親鸞は言う。


 その中でも、阿弥陀仏の真実の光に照らされ、「自分は真の善行なんて一つもできない・・・やっぱり悪人じゃないか(呆れ)」と気づいた者、これが「悪人正機」の中で語られる「悪人」である。つまり、「悪人正機」の真の意味は、「自らの悪に気づいた者こそ、阿弥陀仏によって救われるのだ」と言うことである。


 さて、長々と語ってきたが、私は何も皆さんに浄土真宗を信仰してほしいとか、仏教マスターになってほしいとなどと思っているわけではない。注目したいのは、2章で見た「無知の知」と、この「悪人正機」の内容の奇妙な類似性である。まるで「自分を悪人だと自覚している者」「自分を無知(頭わるわる)だと自覚している人」に置き換えてみよと言っているようなものである。というわけで置き換えてみる。


 まず、阿弥陀仏のようにどんな小さな頭わるわるも見逃さない神または仏的な存在を仮定しよう。ひとまず名前を阿呆陀仏とする。


 我々人間には多面的な知を網羅することはできないことは上述の通りなので、どんな人間も何かしらは小さな「頭わるわる」をしでかすし、阿呆陀仏がそれを見逃すことは決してない。その意味では阿呆陀仏からすれば全ての人が「頭わるわる」である。しかしその中でも、阿呆陀仏による「頭の悪い光」を浴びることで自分が頭の悪い存在であることに気づいた者は救われるのである。このように、悪人正機を参考にして形成された、阿呆陀仏を中心とした宗教体系によって完璧に無知の知を説明できてしまうのである。

 これは13世紀当時の日本において大流行し、のちに学問として大成する頭わるわる学の重要な考え方が宗教の形で人々に根付いた。我が国において頭わるわる学の国民への浸透が著しく早かったことはこのような社会的地盤に起因するものであったと言える。

4 頭わるわる学の実践 <あた~まわ~るわ~るわぁ^~る~わるぅ^~>

ここまでの議論をまとめ、頭わるわる学の基礎をおさらいしよう。

・「頭わるわる」は知能がある証拠。
・「頭わるわる」は相対的なもの、絶対的な頭わるわるは存在しない。
・自らの「頭わるわる」を自覚することが大切。

 以上が今まで述べてきたことである。もちろん頭わるわる学には他にも重要な理論は存在するが、今日はこの辺にしておこう。しかし、これらは理論に過ぎない実践が伴わない理論はカスである。というわけでここからは頭わるわる学の実践編である。

4.1 あた~まわ~るわ~るわぁ^~る~わるぅ^~

 まずは何も言わずに以下の動画を見てほしい。

 ネズミのコスプレをした女性が、

あた~まわ~るわ~るわぁ^~る~わるぅ^~

という奇妙な言語を発しながら、この世のものとは信じがたい、踊りに似たなんらかの行為をしていて、その裏でこれまた非常に奇妙なBGMが流れているという、異様としか思えない光景が広がっていたことだろう。

 これが我々の界隈では知らぬ者はいない程有名な、「あたまわるわる音頭」である。そしてこれを踊っている女性こそが他ならぬ「NYN姉貴」である。「東方Project」に登場する「ナズーリン」というキャラクターに酷似しているが、全くの別人である。(厳密には必ずしも完全な別人とは言えないが、ここでは別人だと理解しておいた方が(主に東方ファンの方の)精神衛生上よろしいかと思われる。)

  NYN姉貴とは何者なのかを考察するだけでも一つの書籍ができる程の興味深いトピックであるが、ここでは本筋ではないので割愛させていただく。


 ここで注目したいのは、「なぜ彼女はこのような頭の悪い踊りを踊ったのか?」ということである。実はこのことは、3章までに述べたことで説明がつくのである。


 NYN姉貴はあたまわるわる音頭を踊ったことで自身の頭の悪さをネット中に誇示した。通常の考え方であれば理解しがたい行為である。しかしここで、「頭が悪い」ならば「知能が存在する」という関係を思い出そう。すると、「NYN姉貴はあの知性のかけらもない踊りを示すことによって逆に自らの知性の存在を証明していた」という構造が無情にも成立してしまうのである。


 また、NYN姉貴は愚かさの極致を目指すことで、「絶対的な頭わるわる存在しない」という頭わるわる相対性理論の限界に挑戦していたということも興味深い。その姿は、熱力学において熱効率の限界が示されてもなお、その限界値、カルノー効率に近い熱機関を作るべく努力を惜しまない技術者のそれと寸分も違わず重なっている。


 これだけではなく、あたまわるわる音頭は「無知の知」までも体現していることも看過できない事実である。真に自らの頭わるわるに気づいた者でなければあのような愚鈍な体の動きができないことは言うまでもない。


 そう、NYN姉貴はこれらを意図してか、はたまた偶然かは定かではないが、あたまわるわる音頭によって頭わるわる学の実践という悲願を達成していたのだ。

 そして聡明な読者諸君はすでにお気づきかもしれないが、「頭わるわる学」とは、このようなNYN姉貴の功績に敬意を評して、あたまわるわる音頭からとってつけられたものである。


 さて、では現在の頭わるわる学者や、私のような頭わるわる学専攻の学生はというと、もちろん偉大なる先人NYN姉貴を参考に日々頭の悪い生活に勤しんでいる。自らの頭の悪さを発揮する上で絶好の場が、Twitterである。しばしばバカッターとも言われるTwitterだが、今日も頭わるわる学者らのあたまわるわる音頭、男子大学生のPUI PUI鳴く声、クレラップCMを元ネタにした奇怪な文、どう考えてもピンチなのに「チャンスか?」などと宣う意味不明なポジティブシンキング、純粋な発狂、などといった秀逸かつ劣悪なネタツイ、バカツイが五月雨のごとく降り注ぐ。


 これらの活動を主導する団体は、東京大学頭わるわるサークルと呼ばれる。冒頭に紹介した、私も所属しているサークルである。サークルといっても入会や活動内容には何も難しいことはなく、

#東京大学頭わるわるサークル

のハッシュタグをつけてツイートするだけで入会できるし、入ってからも好きな時に頭わるわるなツイートなどをすればいいだけである。頭わるわる学の実践は最適な場なので、頭わるわる学に興味を持っていただいた方は是非入ってみることをおすすめする。現在は10人程度のメンバーがわいわい楽しく足を引っ張り合っている。

 最後は宣伝のようになってしまったが、この文章が皆様の頭わるわる学の入門に役立ってくれればこれほど嬉しいことはない。


 ここまで、皆さんのことをあたかも「あほばかまぬけひでたるとじゅんぺいゆうさく」であるかのように書いたが、実際のところ、私などに言われるまでもなく、あなたは優秀である。〇〇大学にいるからだとか、学業の成績がいいからだとかは全く関係ない。あなたがこの文を読んでいるということ自体が、「どんなゴミにも何らかの価値あるものを見出そうとする飽くなき知への探究心と、それを自分のプラスにつなげようという恐ろしいほどの向上心」の証だからである。そしてこのような知的探究心や向上心の持ち主ほど、次のような悩みに陥りやすいと言える。

  「俺(私)、頭悪くね?」

 そのような時、少しでも頭わるわる学のことを思い出してくれれば、この文を書いた甲斐があったというものである。
 最後に、この言葉を贈ろう。あなたのような優秀な人間であっても、「頭ガチプロ」な人間の脅威に挫けることがあるかもしれない。そんなのは無視すればよいが、次のように言ってやってもよい。頭わるわる学者の中でも流行りのフレーズである。

そうだよ
よく知っているね
キミは物知りだね


君は物知りだね


さくらももこ著「COJI-COJI」より


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