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ミルクの夢


 明日は早起きしてローソンに牛乳を買いに行こう、と考えながらベッドに横になっていたら、見事にローソンに牛乳を買いに行く夢を観た。
 お父さんとお母さんと弟と僕。4人で車で出掛けているその道中、あ、と思い出したかのようにぼくは、牛乳買いたいからそこのローソン入って、とお父さんに言う。すると、牛乳なら家にあるし、それにコンビニで牛乳なんて、とお母さんが言う。どうしてもローソンの牛乳がいい、と僕が言って、ローソンに寄るけれど、僕がほしい牛乳は店頭に出ていなくて、他のローソンに探しに行く、みたいな夢。
昔から、夢の中でなにをしたか、とかどこにいったか、とかそういうことを全然覚えていられない。起きたその瞬間は、これは絶対に忘れないはずだ、と思っていても寝起きの冷たいお茶を飲んだり、シャワーを浴びているうちに色んなものと一緒にどこかへ流れていってしまい、ざっくりとしたタイトルのようなものだけが残る。家を出て自転車を漕いでいるうちに覚えておこうと思ったことすらも忘れてしまって、もう二度と思い出されもしないものがほとんどだと思う。唯一僕がちゃんと覚えている夢は小学生のときに観た、学校のグラウンドに大きなトラックが突っ込んできて、その荷台から出てきた軽部アナに拳銃で撃たれる、というなんとも奇天烈な夢だけだ。あとはぼんやりとしたタイトルだけがいくつか記憶の片隅にあるだけだ。多分、朝起きてすぐお母さんに話して、集団登校で一緒だった友達にも話して、朝の会の前のちょっとした自由時間にクラスのみんなに話したから、そうやって何度も口に出して話しているうちに夢が記憶のノートにしっかりと貼り付けられたのだ。だからこうやってここに書いた今日の夢のことも多分ずっと忘れない。そういう夢を観た、っていうことだけじゃなくてしっかりと映像として覚えていられるような気がする。
 小さな頃のおぼろげな記憶はなんとなく覚えている夢に似ている。大阪に住んでいたときのアパートから鯉のぼりがゆらゆらしている映像や、大きなタワーの上でチョコレートのアポロを買ってもらった記憶、石川に引っ越してきて住んでいた団地の構造や、朝、保育園に行こうとドアを開けたらそこに座っていた小さな子犬のこと、まだまだ小さな駅舎だった小松駅に電車を観に行ったこと、小学校に上る前にマイホームを建てることになり、建設中の土台を観に行ったら、家のまえに着いた途端ラジオの電波がとぎれとぎれになり、お母さんが今からでも引っ越すのを止めようと言ったこと、ECCジュニアをサボって近所の高校生のお姉さんと校庭のアスレチックで遊んだこと、そのアスレチックの一番上にある踊り場から、友達のポケモンカードの山が風に吹かれて夕方のカラスの群れみたいになったこと。どれも曖昧ではっきりしない映像だし、家の前にいた子犬の記憶に関しては最近まで、本当にあったことと僕がずっと記憶として覚えていたことが全然違っていた(子犬の話はまたいつかどこかで)、なんてこともあった。
 もしかしたらそんな記憶のなかのいくつかは、ぼんやりと覚えている夢の記憶なんじゃないか、とかそんなことをむにゃむにゃと布団の上で考えていたら、ふと目覚まし時計を観た時にはもうお昼の13時過ぎになっていた。不規則ぎみな生活時間を治そうと昨日は0時半過ぎに横になったのに、結局すさまじく長い時間を夢のなかで過ごしてしまった。
 夢のことを思い出しながらさっと身支度をして牛乳を買いに外に出る。ここ2日ぐらいはまったく外に出ていなかったので、なんとなくドアを開けるだけで気持ちがいい。ちょうど同じくらいに距離にある川の向こう側のローソンか住宅地に囲まれたローソンに行くか、少し考えてまだ行ったことがない住宅地にあるほうのローソンに向かうことにした。まだまだこの町は僕にとって「新しい町」で、こんなふうに行ったことのないお店や通ったことのない道がたくさんある。よく晴れているからか途中で通りかかる公園ではたくさんの子供たちが遊んでいた。それがいいことなのか、あまりよくないことなのか、どっちなんだろう、と少し考えてみたけれど、今の僕にははっきりとは分からなかった。そんなことを考えながら自転車を漕いでいると、何度か道に迷ってしまった。住宅地に中は迷路みたいになっていて、気がつくと違う方向に向かっていたり、やけに多い行き止まりにあたったりする。そういうえば、京都の町には行き止まりってあんまりなかったよな、とどうしても懐かしい町のことを想ってしまう。
 夢の中とは違い、ローソンの店内にはお目当ての牛乳が遠くからでもすぐ分かるぐらいたくさんに並べられていた。レジにはビニールの幕で覆われていて、SF映画のワンシーンみたいだった。
 家に帰ってすぐ牛乳をふたつ冷蔵庫に並べる、それだけでなんだか生活の襟を正したような気分になる。窓を開けて部屋に風を通したり、布団を干したり、調味料の向きを揃えたりするだけで少しだけ心が軽くなるような気がする。ちゃんとすることは気持ちがいいのだ。特にこんな季節には。
 どうしても牛乳が飲みたくなったわけじゃなかった。ローソンが最寄りのコンビニというわけでもない。新しくなったローソンに牛乳のパッケージが可愛い、というだれかのつぶやきを観たのだ。実際に家にやってきたそれは本当に可愛くて仕方がなくて、冷蔵庫を開けて手に取る度に色んな角度から眺めてしまう。すっきりとしたシンプルなデザインとほんのりチョコレートの匂いがするような色がとてもかわいい。そして、パッケージの真ん中に「牛乳」「WHOLE MILK」という文字と一緒に「우유」「全脂牛奶」と表記があるのがとてもいいなと思う。日本語と英語と中国語とハングル。こういう小さな場所に宿る優しさが世界を少しずつ良い方へ良い方へと手を引いているのだと信じたい。多分、僕が想像しているよりもたくさんの困難や想いがこの小さなパッケージの周りにたくさんあるのだろう。こういうものを見つけてはクレームの電話をしてくる人だってもしかしたらいるのかもしれない。その人の正義や嫌悪で、誰かにとっての優しさが簡単に握りつぶされてしまうこともあるかもしれない。大げさかもしれないけれど。そういうものを無視したまま歩いていけないぐらいには僕は大人になったのかもしれない。それは全然悲しいことじゃない。きっかけになるような色んな種類のマスをたくさん踏みながらここまできたのだ。たくさんの映画を観て、たくさんの物語に触れてきた。色んな国にたくさんの友達ができた。悲しいことを悲しいと思えるようになったし、ちゃんと思ったことをことばにするようにもなった。10年前の自分なら気にもしなかったようなことで怒ったりほっとしたりしている。そんなふうになれた自分のことを、僕は自分でほんの少しだけ誇らしく思ったりする。
 紙パックの口をそっと開けて、中身が見えるように透明なグラスに注ぐ。一気に喉に流すと、体の中の道がどこにあるのかが分かるような気がするけど、すぐにどこかに消えていってしまう。久しぶりに飲んだ牛乳は冷たくてまっしろで気持ちがよかった。

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