死んじゃったり生きちゃったり

一週間前の舞台『殊類と成る』が思いのほか尾を引いており、それは僕個人の思い入れや、舞台復帰戦であったこととかが非常に大きいのですが、このままではうまいこと切り替えられんなあ、次に行けんなあとなっているので、思っていること・極々個人的な事情などを記していきます。作品についての見解というよりは本当に室田自身の話になると思われるので、あまりその辺は期待しないでくださいませ。隙あらば自分語り。

一年ほど前から、真綿で締められるようにゆるりと体調を崩し続け、今年の五月に正式に芝居もプロレスも休業するという運びになり、そろそろ表現活動は辞め時だなというようなことを、漠然と且つそれなりに真剣に考えておりまして、

その後様々なきっかけがあり、敬愛する友川カズキ氏のライブに行ったりですとか、一ヶ月半ほど栃木の山奥で生活したりですとか、そういうことをしながら、徐々にですが、もう一度だけ、やってみようというように、気持ちが傾き、今回の舞台復帰に至ります。

舞台復帰に際して、僕自身がひとつ心に決めたマインドといいますか、拘りといますか、があり、それは

「自分を出していこう」

という、それだけの、本当にそれだけのことでして、何故そこに行き着いたかというと、自分自身のことがよくわからなくなってしまったからなんですが。

俳優としての自分というのは、例えば僕自身の言葉をしゃべるわけではなく、台本に記された台詞があり、役があり、それに血肉を通わせるために心血を注ぐわけですが、そのためには自分自身とはまったく異なる思考や行動・性に寄り添うこともあるわけで、そこに対するアプローチや苦悩・楽しみがある思います。

それに対して、プロレスというのは、「室田渓人」という、本名で、これ芸名っぽいですがまるっきり本名なんですが、自分自身として、人前に立ち、闘うわけで、僕にとってこの行為は非常に新鮮であり、心を悩ます部分でもありました。

勿論プロレスラーと言っても様々なタイプがあり、本名とは言えなにか皮を被っていることも往々にしてあります。だからこその演じ方と言いますか、人前に出たときのスイッチと言いますか。

室田渓人個人としてのタレント性や、俳優としての透明性の程度、プレイヤーとしての拘り、飯を食うための気遣いの両立、それらふまえた上での人との関わり方、等々。

全ての人々が晒される問題であるとは思うのですが、甘ったれの自分にこれだけ強くのしかかってきたのは28歳にしてはじめてでした。基本的には他者や周囲の環境に流されやすいタイプであるというのもよくない方向に働きまして。

そんでもって結局なにが自分なんだかよくわからなくなっていき、自分の感性が死んでいき、何を観ても「それなりに面白いが、別にそれほどでもない」という風にしか感じ取れなくなってしまい、感性のみでなく体まで動かなくなり、というような、ざっくりと説明すると、このような過程を踏んでいったわけです。

芝居を続けてきたこと。プロレスに挑戦したこと。このことに対して負い目を感じているということはまったく持ってありません。飽き性の僕がこれだけ長く続けてこれたのは芝居くらいであるし、プロレスからは本当に未知の刺激を日々もらい続けています。

では結局は自分の向き合い方の話になるわけで、そこで先に記した「自分を出していこう」に行きつきます。

それは、俳優としても、人間としても、どちらもにあてはまります。

例えばその瞬間に思いついたことは滑ってもよいからやってみよう、であるとか、イライラしたり、楽しかったり、つまらなかったり、笑ってしまったり、つかれたり、喋りたかったり、喋りたくなかったり、そういった刹那的な感動は極力包み隠さず、それは芝居としてのアプローチだけでなく、稽古場の居方としても、その後の呑みの席でも、もう出していこうということですとか。

兎に角、自分という俳優は、人間はこれである。これを面白いと思う。というのを、もう出していこいうと、その結果、好かれたり嫌われたりがあるなら、それはもうきちんと受けとめうと。好かれることと嫌われることは、今の自分の中では同価値で、それは自分というものをきちんと出した結果という意味では全く持って同価値であるという、そういった心持で、全ての瞬間がそうとはいきませんが、挑んだところがありました。

殊類の成るという作品の結論、というか、行き着くところと、意図せずして、非常に似ている部分があるなと偉そうに思っていまして、しかし自分自身が生きていくためには、どうしてもこのマインドは必要不可欠であるというように、思うわけです。


これと並行して、思うことがあって、それは稽古中からうっすらと、本番が終わってからひたすらに去来する思いなのですが、

人間としての室田渓人は生き返りつつあるのかもしれないが、

俳優としての、自分の好みとしての俳優という意味ではなく、

職業俳優としての室田渓人は死につつあるのだということでした。

といっても俳優業だけで現在食えているわけではないので、食っていこうという意思の部分の話です。

自分を出していく。自分に正直になるということは、好きなものだけでなく、嫌いなものにも正直になるということで、先ほど好きも嫌いも同価値であるということを小癪にものたまいましたが、それはつまり自分の視野や行動を狭めるということに繋がります。

人間的に己に準ずるということ、好きなものを好き、嫌いなものを嫌いということは、実は最も簡単なことであり、自分の好みでなくとも自分でないものに寄り添う側面を持つ俳優としては、大きな欠陥であると思うのです。

芝居だけでなく、例えばSNSにおける宣伝であるとか、観に来てくれた方への気遣いであるとか、そういった人との関わり方において、自分の好きなことしかしない・それに準ずるというのは、非常にこう、失礼であるし、不親切であるし、それではお客さんも増えはしないぞと思うわけです。

もともとそういった関わり方が得意ではありませんが、今回は特に面倒なことは面倒、やりたくないことはやりたくないをひたすらに選んだ稽古過程でありました。

実際表にでているもの、イメージは、それほど変わっていないのかもしれません。周囲の方々からしたら。しかし内心として、馬鹿なりに考えてきた、自己プロデュースであるとか、俳優としての技術力であるとか、そういったものから極力遠ざかるような心持になってしまいました。

それがもしかしたサンゾウという役には必要なアプローチであったのかもしれません。が、そのサンゾウの性や殊類と成るの行き着く結末もあいまって、ああ自分は俳優として、好きなことを表現できればよいという、職業俳優とはもしかしたらかけ離れた心持でもって、芝居にかかわる俳優になってしまったのではないかという、勝手に落ち込み、勝手に転んだつもりになっている心情わけです。

勿論それは心持ちだけではなく、現在のコンディションも把握できるようになっており、これ以上無理をすると潰れるぞというのがわかってきているからこそというのも大きいです。現状の体調的限界を知るのは、生きていく上では非常に良いことですが、俳優としては悔しいことでもありますので。

曝け出すにしても、演じるにしても、どちらにしても、怖く、矜持を必要とすることであると、今改めて思います。なので今回の共演者の方々にも、タイプは違えど、自身の拘り・信念が垣間見えたときに、僕はひたすら尊敬の念を抱いてしまうわけです。

僕自身の猪口才な性の変化でいうと、

①俳優というのは芝居だけやっていればいい期

②自己プロデュース大事!観てもらってなんぼ期

③兎に角、今の自分をだしていこう期(いまここ)

ざっくりこのような変化がありまして、

①の時期はもう兎に角芝居がしたい舞台に立ちたい、という気持ちで、全くお客さんを呼べない(呼ばない)にもかかわらず月一本、年間十二本程度のペースで舞台にでていた時期でした。ギャラもほとんど気にせず、お客さんも呼ばず、自撮りをしている人間・集客のためにいろいろと試行錯誤している人間を馬鹿にしている部分すらありました。これだけの数現場にでていた癖に全くお客さんが増えなかったというのはやはりこう、そもそも関わろうという気がなかったんでしょう。俳優的には得たものは勿論あり、このまえまでは聞こえるか聞こえないかの声量でシリアスにボソボソと喋っていたかとおもったらその半月後にはラガーマンの服を着てジャイ○ンの物まねをしながら取っ組み合いをするといったような、幅は多少広がったように思います。

②の時期はそれこそ、今のままではいかんと思い、自撮りに挑戦してみたり、ツイキャスをやってみたり、自分なりに「楽しい人間になるんだ!」という心持ちのもと試行錯誤した時期でした。しかし結局自分のことしか考えていないため、そういった浅はかな試みは長続きしませんでした。ありがたいことに少しづつ気にしてくださる方は増えてきたものの、過剰距離をつめようとしたり、ペコペコしたり、己の人に対しての興味のなさが露呈したりということが相次ぎ、離れていくかたも多かったです。いや本当、未だにご縁があるかた、本当にありがてえやなあ。プロレスとの出会いはたまたまこの時期でしたが、やはり自分の中ではこれは武器にしてやる。室田渓人してのタレント性を高めてやるという思いも、後からですが強くでてきて、本当に色んな意味で大きな出会いでした、いまだにそれはそうです。

そんなこんなで体調を崩し、③現在に至るわけですが、

こうやって今までの過程を記してみたのは、なんてことなく、単なる自己満足であって、多少の懺悔のような気持ちであって、

これから自分はどうするのかということで、自分を押し出すということを選んだなら、もうそれはそこでやってやるしかないということです、きっと。

さっきも書きましたが、何をやるにしても、何を選ぶにしても、怖いですね。覚悟がいりますね。①にしろ②にしろ僕は結局中途半端であり、芝居として強力な武器や個性や技術を手に入れたとは全く思わないし、ではお客さん何人呼べたんだいと言えば最高で50人ちょうどという、単純な数字としてみたらそのていどなわけです。

もろもろを捨てて芝居のみに準ずる人も、

お客さんにたいしての気遣いを怠らない人も、

皆すげえよ。自分で選んで自分で通して。すげえことよ。

ぱっきり分けることでもないのはわかってます。それぞれがそれぞれに、すげえ。

今の自分であったら結局なにができるでしょう。

なんだっていいのはわかってるんだ。こうあるべきなんてことは本来ひとつもなくて、ついつい自分に対してはそれを当てはめてしまいがちですが、自分の矜持さえそこにあればなんだっていいのよきっと。

人間としての生と死と、俳優としての生と死と、そういったところでの、ネガティブな意味でもポジティブな意味でも、なにができるでしょう。

などといかにも大仰にドラマッチックに締めに向かおうとしているのがありありと見て取れますが、生きようが死のうがそんなこたどうでもよいんですきっと。なんやかんやで成り行きであり、ありような部分が大きいと思ってますので。兎に角、井の中の蛙なりにいまの自分でやろうと決めたなら、そこで一生懸命、楽しんで苦しんで、やらねえとなあ。

今になって強く思うのは、こんな俺のことなんぞを面白いといってくれたり、お前はすげえと励ましてくれたり、もっとできるだろと叱咤してくれる、先輩なり後輩なりお客さんなりひっくるめて人間の皆様が、こんな俺にもいたりして、なのでその人らのためにも、俺は自分に自身を持とうと、思います。

そこのあなたですよ。今読んでくれてるそこのあなた。感謝してんるんですよ。気の利いたことはできないし、変に気を使いたくないからするつもりもないけれど。

己の卑屈な性を野放しにするのは簡単ですが、その人らのことを思えば、持てない自信もどこからか湧いてくる気がします。自分を出していくなら、自信をもたねえとなあ、自分に。

皆に生かされています。死ぬも生きるも一人でなく、皆さんがいるから感じられることです。なので、生も死もどちらも感じつつ、ここからもう一度、俳優業、頑張ってみようと思います。

それに、まだ完全にはあきらめてねえからな。芝居で食うこと。焦燥や諦念も抱えたまま、今の自分で、勝負するつもりだからな。

芝居してえな。仕事おくれやす。



しょうもない自分語りに最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

なにか結局おれは自分のことを知ってもらいたいだけという、甘ったれた精神であるなと、思います。

それでも、少しでも、自分のやりたいことをするために生きて死んでしたいし、それが皆様の興味や楽しみとして共有できたらば、そりゃもう飛び切りに嬉しいです。ええ。

芝居の話ばかりにどうしてもなりますが、次はプロレスよ。

楽しみにしといてくださいませ。

皆様も、今日も明日もあさっても、

死んじゃったり生きちゃったりしましょうや。



室田渓人

Twitter:@muro_kei

z89133@yahoo.co.jp





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?