聲の形をなぞってみる


タイトルから評論のような記事を期待してきた方には少し申し訳ない。

単なる日記なので、個人的な思いを書き残すだけなんです。

それでもよければ、読んでってください。


7月31日に、「聲の形」というアニメ映画が地上波送されたようで、

僕は原作漫画は未読ですが、

映画自体はとても、好きというか、好きとか嫌いとかという言葉ではくくりたくないという、とても印象に残ったアニメ作品のひとつでして、

同じ山田尚子監督の「リズと青い鳥」と共に折りを見て観賞し直す作品でして、

リズと青い鳥をリアルタイムで見た時の感想ノートがありまして、評論でもなんでもない、雑な文章なんですが気が向いたらこちらも。

これだけやたらといいねの数が多い。

聲の形放送にあたって勿論見たいと思ったものの、新たにはじめたアルバイトが深夜帯ということで
最後まで見切れずに職場に向かうことになってしまいそうだと、

中途半端に見るなら後日DVDでじっくりとということにして、

Twitterで感想を追いかける程度にしました。

聲の形と検索欄にいれてみると、予測変換で嫌いと出てきて、その気持ちはとてもわかる気がすると思ったり、

後日、友人から電話で聲の形見た?と熱く感想を語られて語ってという時間があったり、

今回も色々と自分の中で熱くなっている、勝手にですけど、でもそうなっている聲の形でして、
なんにしてもレンタルするのが楽しみなんです。

一点だけ、なんとなく書いておきたいことがありまして、

Twitter上で、テレビ放送にあたって細々とカットしたシーンがあるという呟きが見受けられて、








すみません、ここからがっつりとネタバレを含みます。








個人的に非常に印象に残っているあるシーンがカットされていたみたいで、

そのシーンは、前半の小学生時代に、
主人公の立場が反転して、今までの行いが自分に降りかかってくるようになってしまった、皆からいじられたりするようになってしまって、

石田くんと西宮さんのお母さん通しのやり取りが終わったあと、

その後に挟み込まれるシーンで、

放課後、石田くんが意気消沈してひとり教室に入ってくると、
西宮さんが主人公の机に近づいてなにかをしていて、

恐らくクラスメイトたちから落書きされた石田くんの机をきれいに掃除していたんだと思われるんですが、

それをきっかけに石田くんと西宮さんが放課後の教室で掴み合いの喧嘩をするという、

そのシーンがカットされていたようで、

カットする気持ちもわかるといいますか、
色んな意味を持ってしまうシーンだとも思うし、ショッキングでもあるので。

ただ、このシーンは石田くんと西宮さんがお互いの気持ちをはじめて真っ直ぐに相手に向けることができたシーンでもあると思っていて、

西宮さんも普段の殻を脱ぎ捨てて、うまくしゃべれない中で「これでも頑張ってる」と言葉を発しながら、向かっていって、

石田くんはそれに対して「何言ってるかわかんねえよ」と、自分から「なんか言えよ」と促したのにも関わらず、結局理解はできずで、

互いに伝え方もわからなくて、

それでも心には忠実に叫びながら取っ組み合いをして、

その教室に差し込む夕日の光が本当に鮮やかで、
という。

このシーンのあとに、西宮さんは転校して、皆が成長した高校生編にうつっていくんですが。

このシーンについても、作品全体についても様々な意見があるはずなので、シーンの是非なんかを問いたいわけでは全くなく、

最近の個人的な考えというか、思ったことの話をします。

日記ですからこれは。


最近趣味で絵を描いたり見たり、
クラシック音楽をを聴くようになったり、
ギターの練習をしたり、

そこに「言語」や「言葉」が介在しない、ものに触れることが多くなったと勝手に思っていて、

ぱっと見て、聴いて、それに身を任せるというか、感じ入るということが頻繁にあると。

言葉にするという行為はそのもう少し先にあるというか。

「言葉にする」という行為は、
それこそ「かたちにする」行為の意味合いがあると思うんです。

「これこれこういうことだから、この絵を見て感動したんだ」

とか

「この音楽は、こういったらリズムだから、感動するようになっているんだ」

「今僕はとても、◯◯◯な気持ちです(嬉しいでも悲しいでも、様々な意見が言葉が入ります)」

例えば、技術を得るため、体系化するため、説明するため、等々、色々と理由はあるにしろ、

言葉というかたちにすることで、全ての物事を理解をし、物語っていくという、そういった過程があると思うわけです。

じゃあ、聲の形って、なんだろうと思ったんです。
聲の形ってなんだ。

言葉の形じゃなく、聲の形って。

そもそも聲ってなんだ。

絵を見て、
音を聴いて、
感動をするということの、
感動するのこの部分に、

もっと言葉よりは感情に近い部分に、聲はあるんじゃないかと、勝手に思っていて、

僕の好きな、アイドルマスターの二次創作に、

アイドルマスターの二次創作の話を急にこれからするんですけど、

萩原雪歩というアイドルがいるんですが、MY詩集を書くことを趣味としていて、

そのハリアーPという方が描く雪歩は、さらに極端にポエムを読むようになっていて、本人はそれを確か『声』というふうに言ったりするんですが。

一応貼っておきます。ハリアーPの言います手書きシリーズの単なるファンなので。

【ノベマス】ポエムしりとり【短編】 #sm18121942 #ニコニコ動画  

https://nico.ms/sm18121942?ref=share_tw_spweb

でもあながち間違っていないと思うんです。

考えるな、感じろいうのは極端かもしれませんが、

その感情に寄り添って言葉を発した時に、

それがポエムになるならなるんだろうし、

詳しい説明になるならなるんだろうし、

「すごい」になるならなるんだろうし、

聲にならないならそうなるんだろうし、

言葉を自体は其々人によって違うにしろ、
その感情に自分なりに寄り添うことが、
その、聲を形にするということなんじゃないかと思いました。

それは他人に対してもそうで、

例えば「頑張れ」という言葉の形を他人から向けられた時に、

言葉の形が「頑張れ」なだけであって、

そこには例えば「頑張るな」であるとか「無理をするな」であるとか、そういった思いも含まれていたりすると思うんです。

だからこそ言葉の形にも繊細でなければならないということも勿論思うんですが。

自分に対しても、

他人に対しても、

耳を塞がずに、
澄ませて、
寄り添っていく姿勢が、

結局のところ、聲を形にするということなのではないかなと、
作品のオチと露骨に重ね合わせると、そういうこなんじゃないかと偉そうに思って、

言葉を形にすることと、
聲を形にすることっていうのは、

とても近いんだけれども、
だからこそ異なるところもあるんではないかと、

また偉そうに思いました。

聲の形という作品に出てくる、
それこそ、人物だけではなくて、

放課後の教室に差し込む夕日であるとか、

二人が飛び込んだ水面の波打ちであるとか、

淡く流れ行く空と雲であるとか、

そういったものを、感じるということが、それこそ、聲に耳を澄ませて、形を紡いでいく過程と、僕はとても重なるような気がするんですね。

作品事態が、聲の形を丁寧に探っていく過程になっているような、

それだけ繊細で、なんだかもうたまらなくなる瞬間が沢山ある。

そういう意味で、夕日が差す教室の二人のシーンは、
二人がはじめて正直に、自分と(結果的に相手にも)の聲に正直であろうとしたシーンである気がしていて、

聲をかたちづくろうとするシーンなんじゃないかと、

書きながら自分の中で中で今整理されてきましたが、

だからあのシーンがたまらなく好きなんだなあ。

こんな語りももしかしたら野暮なのかもしれなくて、

あのシーンは理屈なんか無しにしてとても僕は感動するシーンであるし、わざわざ言語化なんかせんでもいいんだと思います。

ボキャブラリーが必要な人には必要で、

必要でない人に必要でない、

それでいいんではないかという気がします。

他人に伝達しようとなった時に、僕はこういうごちゃごちゃとした日記の体の言葉を用いてしまうわけですが、

ただ、聲の形という作品の、

あの教室のシーンを見た時に、

沸き上がってくる聲には、極力耳を澄ませたいと思うし、
それが皆さんに少しでも伝わったらよいなと思います。



ごちゃごちゃとたいしたことないことを書いてしまいましたが、

文章に、全く一貫性がある気がしない。

偉そうに書いて、地上波放送も見ていないし。
おとなしくレンタルしに言って、

おとなしく家で見直そう。

長々とありがとうございました。



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