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7月4日

アルバイトが決まらないため、
面接を受けるために外に出て、帰ってきたら自部屋に籠り、体力温存小銭温存、息を潜めて生活しているこの頃。
体としてはこういうことなんですが、
部屋の中にいるから生活的にはひっそりという体を成しているだけで、、
自分自身としては本当に煩くなりました。

兎に角ひとりで喋るようになった。
今日はというと、朝起きて洗濯物干しながら、ぶつぶつ呟き、
そこからはギターの練習しながら歌って泣いて(奥田民生)、
都知事の定例会見見ながらバカ野郎とかくだまいて、
定期的に「だっ」とか「わっ」とか叫んで見て。

今は遅めの昼飯食って、ぼーっとしてます。


数年前からこの、独り言増加傾向にはあったんですが、最近はまた増えた。

道端をひとりでブツブツ喋りながら歩いている風変わりなおじさんに、自分が近づいていくとは思わなんだ。
さすがに人前で黙っていられる節操は働きますが、あと10年もしたら機能するだろうか。まあするか。周囲に迎合するのだけはうまいんだから。

内弁慶気質は幼い時から持っているつもりですが、最近それがどんどん色濃くなってきている気がしてならない。
内弁慶というのは近しい他者にたいしてというよりは、それも少しありますが、
自分自身にというのが一番大きくて、平気で乱暴な口をきくときもあれば、その変わりにこう、ゆるく甘やかしたり、時に謝罪をしたり、
弁慶の泣き所をすりすりと手当てをしてあげる感覚があって、

つまり内弁慶な内弁慶Aに対して、もうひとりの内弁慶な内弁慶Bが
内弁慶B「お前は内弁慶だろが!俺は内弁慶だぜ!内弁慶A !」というふうに内弁慶ぶりを発揮したと思えば、
内弁慶Bが内弁慶自身の内弁慶によって内弁慶の泣き所を痛めた時に内弁慶Aが内弁慶Bの内弁慶の泣き所を
内弁慶A 「大丈夫かい、内弁慶B 」とさすさすと手当てをしてあげるという、
そういう感覚なんですね。

部屋の中でわーきゃーやってべらべら喋って歌歌った結果、他人と会うときに、すんといれるなら余程そのほうがいいような気がする。それが内面に篭ったままになってしまうときついけれども、そうならないために喋っているし絵も描いているし、調子はいいんだよな。

他人とは折り合いがつけられない自分がいたとして、その自分と折り合いをつけられるのは自分のみなんだから、うまいことやってやりたいな。卑怯や乱暴や猪口才も、自分の部屋の中なら出し放題ですから、排除せずもっときたいもんです。

他人関わる時はなあ、またなあ。
極力すんと。
まだまだ見栄張るんだよな。もうちょい投げ出せたらいい。もうちょい傷ついたらいい。まあなんでもいいんですが。なんでもいいのよ。


大体この、僕は本を読むとき、本自体に書き込みしながら読みすすめることが多いんですが、
エレカシのインタビュー集なんかは、まさにそれで、ここ半年ほど読み返してなかったんですが、
あれね、何回読み返しても少し恥ずかしくなります。

なんとも。
なんともなあ。
まあ恥ずかしいくらいでいいかなとも思うんですけれども。
以前よりも、エレカシ至上主義がかなり薄まった気がしていて、なので今改めて読むとどんなもんなんだろうか。
ということで、また自部屋に篭って独り言喋ろうと思います。

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