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「みんなつらい」がつらい話。

つらいのはみんな一緒。

誰しも一度は聞いたことがある言葉じゃないでしょうか。

「他の人もつらいんだから、あなたも頑張りなさい!」

弱音を吐いてる人を𠮟咤激励する言葉です。

私は小学生の頃から、この言葉に違和感を抱きながら生きてきました。

あれは小学校六年生の頃、修学旅行で山登りをしていた時のことです。

山頂が近付いてきて、疲労困憊な生徒たちに向かってある先生が呼びかけました。

「ほら!つらいのはみんな同じだ!弱音を吐くな!」

先生の喝により活気づく一部の男子生徒。

運動自慢のある男子生徒は「がんばるぞ!!」と周りを鼓舞します。

その掛け声をきっかけに、自然と生徒の間にも一体感が生まれます。

しかし、私の前を歩いてた女の子は顔面蒼白で、今にも倒れそうな表情を浮かべていました。

周囲の空気を気にする余裕はなく、ひたすら歩を進めるのに必死です。

結局その女の子は周りのペースについていけず、途中で下山することになりました。

その光景を見た瞬間に、私は「つらいのはみんな一緒」という言葉を疑うようになりました。

たしかに、つらいのはみんな同じだと思います。

しかし、つらさの程度は千差万別です。

加えて、何につらいと感じるのかも人によりけり。

運動が得意な男子と、喘息を持った女子では、つらさのセンサーが別物でしょう。

ゲームで、同じ攻撃を受けてもキャラクターによって減るHPは異なるように。

私たちは、ついつい物事を平均化して他人に押し付けがちです。

この程度ならこのくらいはできる(できない)だろう。

平均的な指標は、多くの人にとって役に立ちます。

ただ、平均という枠組みに入れない人がいるのも確かです。

枠内にいる人は、時として悪気なく枠外の人を傷つけます。

「普通に考えればできる」
「甘えだ」
「気合が足りない」

果たして全てのケースがそうでしょうか。

少なくとも私の目に映ったのは、誰よりも懸命に歩いている女の子でした。

他人のつらさの度合いを完全に理解するのは不可能でしょう。

しかし、深さまではわからなくとも、苦しいという感情があることは理解できます。

それを理解し合えるだけでも生きやすい世の中になると思います。

自分のつらさ≠他人のつらさ

忘れずに生きていきたい心構えです。


下山した女の子は、その後の合唱コンクールで意気揚々とピアノを披露していました。
運動自慢の男の子は歌の練習をさぼり何度先生から怒られたことか。。


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