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プロの天使


※看護師時代の実話です。


「責任者を呼べ! じゃないと、警察呼ぶぞ!」



男は、真っ赤な両目で鋭く私を捉え、口から涎を流し、身を震わせながら怒鳴り散らした。



狭く味気のない部屋には、男と私のふたりきりだった。


(こわい)


どうすることもできない私は、ただただその場に立ちすくんだ。



「なんだ、できないのか? どういうつもりなんだ」



80年の年月とともに刻まれた顔面の皺一本一本までもが、私への怒りに満ちているようだった。


(誰か来て)


心の中で必死に助けを求めたが、
切実な思いとは裏腹に、背にした扉が開くことはなかった。






「おはようございます、お願いしまーす」



朝礼が終わり、病棟での慌ただしい朝が始まる。



「もう、大丈夫だから。あとはなんとかしておくから村山さんは帰っていいよ。大変だったね」


恐怖で涙が止まらない夜勤明けの私に、上司や同僚が優しい言葉をかけた。





きっかけは
「朝食のパンにバターが添えられていない」
たったそれだけだった。



彼を担当していた私は、起床時間にあいさつをしながら部屋のカーテンを開け、天気の話題を振り、テレビをつけ、見やすいように角度を調整し、テーブルを綺麗に片付け、食事を運び、熱々のおしぼりを手渡し、朝食メニューの説明をした。



そこで彼は、


「バターがない」


と一言放った。


彼のふつふつと溜まりに溜まったフラストレーションが、その瞬間、一気に弾けた。






これが私たち看護師の日常。
白衣の天使の世界。




「いつも基準はかわらないよ、患者さんが基準。何が一番患者さんのためになるのか、ただそれだけだよ。簡単でしょ?」



あの場を収めてくれた木戸さんは、涙目の私にそう言い残した。

15年以上のベテランの言葉は非常にシンプルでわかりやすかったが、シンプルがゆえに一番難しかった。



「看護って、難しいです、わかんないです」


看護に悩む私を、木戸さんはよく飲みに誘ってくれた。


「私も初めはそうだったけどさ。患者さんと日々真剣に向き合っていれば、村山さんも絶対大丈夫」


木戸さんの看護は本当にすごかった。


木戸さんの一言で、患者さんは穏やかになるし、治療に前向きになった。


そんな看護師になりたい、そう思うようになった。


「看護って素晴らしい」自分の力でそう伝えられるようになりたい、と思うようになった。






看護師は、単なる患者の世話係ではない。


患者のその日の病状を常に把握して、細かい変化も発見し、適切な治療を受けられるよう調整する。


治療がスムーズに行えるように、患者の心の準備も整える。


治療が適切でないと思えば、医師にだって直接交渉する。


患者やその家族のが辛くてたまらなければ、気持ちのはけ口になる。


それが患者の為なのであれば、時に厳しいことも言わなければならない。



「バターがない」
そう言う心臓病の彼に、私は決してバターを渡すことはできなかった。



彼の心臓のためだった。



しかし、私がいくら説明しようと、彼は聞く耳を持たなかった。


怒り狂う彼を目の当たりにし、私はどうすればいいのか、そしてこれが本当に彼のためなのか、わからなくなっていった。





入院生活は過酷だ。



今までできていたことが病気に侵され徐々にできなくなる。


治療のためと言いつつ、ストレスになる食事や運動制限。

髪が抜ける、太りやすくなるなどあらゆる治療の副作用。

病気以外にも、ありとあらゆるストレスを抱え、心の病気になることもめずらしくない。



「バターがない」

それは彼の心の悲痛な叫びだった。


バターがないことに怒っている訳ではない。


彼は、悲しかったのだ。

自分の身体機能が衰えていくことが。


辛かったのだ。

自分で思うように身動きが取れず、孫ほどの年齢の私に頼らなければならないことが。



訴えていたのだ。

こんな狭いところから早く抜け出させてくれと。



本当に助けを求めていたのは、私ではなく、彼だった。




彼の想い受け止めることができなかった私は、完全に看護師失格だった。


悔しかった。


情けなかった。


今まで学んできたことが、何も身になっていなかった。


私は自分を責めることしかできなかった。






3日後、私は再び彼の部屋を担当した。


(こわい)


私は心の声を抑えきれなかった。



「こんにちは、今日担当する村山です。よろしくお願いします」

できるだけまっすぐ彼の目を見て挨拶した。


彼は一瞬びくっとして、私から目を逸らし、口をつぐんだ。彼もまた、怖がっていた。

(こわい、でも)

私は、自分の心の声に少し抗って、彼に少しずつ声をかけた。


すると、彼も、少しずつ答えてくれた。



(木戸さん、上手じゃないけど、向き合って、一歩だけ前に進めました)


私の心の声はいつのまにか、恐怖から木戸さんへの報告へと変わっていた。






こうやって今日も私は患者さんと向き合う。


プロの天使にはまだ、なれない。

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