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音大の単位表

幼少期からピアノのレッスンに通っていた訳ではないのに「作曲家になりたい!」と何故か思ってしまい、どうしても音楽の勉強がしたくて「早く就職して家計を助けてくれ」という親の意向を振り切り無理くり音大にバイト代+日本育英会の奨学金(無利子)で行きました。
ピアノが弾けなかったので、高校卒業後1年間急遽アルバイトしながら音楽理論とソルフェージュとピアノ+エレクトーンのレッスンに通いました。
1年後、晴れて(?)合格。専攻は電子オルガン。大してピアノ弾けなくても入れるということでここに決めました。

これは2年のときの履修科目です。30年以上前の田舎の音大ですので今の都会の音大とはだいぶ違うかも。

正直何やってたのかよく覚えてません。
あくまで「電子オルガンのレッスンが中心」だったため、どっちかというと作曲法や対位法などはオマケみたいなもんだったような気が。
内容は、東京の音高受験レベル(多分)。和声学はいちおう芸大和声使いましたが赤本しかやりませんでした。
「和声って嫌い!つまんない」
という人は多かったですね。
ポピュラー音楽のコードにすっかり慣れた状態だと、和声の禁則やらなんやらが肌に合わないのも無理はありません。

自分自身、「やっとちゃんと音楽の勉強が出来るんだ!嬉しい!!」という状態だったため、ここでは「音楽を学んだ」というよりも「今まで何をどうすればいいのか皆目見当つかなかったが、ようやく音楽の勉強をする足がかりを掴んだ」というところでした。
マジで人生をかけて「急がばまわれ」やってるかのようです。
ようやく音楽にまみれ、かつ憧れていたアカデミックな場所に身を置けたことが嬉しくて、まわってるうちに行く先が消滅したらどうすんだ、なんてことはこの時は考えてもいませんでしたけどね。
ある意味幸せだったとも言えます。

一応音楽以外の授業もありましたが、何より嫌だったのが体育。学校から遠い所にあるグラウンドまでわざわざ移動してそこからまた学校まで走らされたり。
「なんでこんなことやらなあかんのや」と腑に落ちないままイヤイヤ走ってました。
今考えると、音楽家は体力も必要なので、これも大事な授業なんだよってことだったのかなと思いますが。
(流石に球技は無かったので助かりました。)

でも、同じ科(電子オルガン)では友人は出来なかった(何やら「ちょっと変わった人」と煙たがられていた)のに何故かピアノ科で何人か友人が出来て、ピアノ科の人しか受けられない面白い講義に誘ってもらってこっそり潜り込んだり、そこの女史と仲良くなって暑中見舞いまで頂いたり(今も大切に保管してます)、その講義で知った近現代音楽や電子音楽にハマったりと、なかなか楽しいこともありました。

そして、この学校に通って一番学んだことは、
音大には週7でバイトしながら通わないといけないような状態なら行かないほう
がいい。音大生は一にも練習二にも練習なのに練習時間削ってバイトやっててどうする!?
練習時間も勉強時間も足りなくて必ず卒業時に後悔するぜ」
ということでした。

そしてその数十年後、作曲家の師匠に出会い、どうにもこうにも立ち行かなくなっていた自分は、一から和声の勉強をやることになりました。

はい、このように時間も金も倍以上掛かります。
「己の信じた道をゆく!なりふり構わず猪突猛進!」(←こういう人間なんです、自分)は、基本「カッケー!」とは思いますが、場合によっては時にダサいのです。