見出し画像

地を踏む初心・「三年」の詩心――関根道豊第二句集『三年』

2022年牛歩書屋刊 「こんちえると叢書2」

「自選七句」と添え書きから


私の「日々の生活の中で出合う感動や疑問を五七五の韻文に記録し己と時代を見つめる」俳句への、大牧広先生の「地球上に何が起きているか、しなやかな詩精神で詠む」指導は、この三年の、この先も叱咤激励し放さない。
 
生きてゐる証し詠み継ぐ桜かな
母といふ全き師あり衣被
相棒と吾は別姓リラの花
核祓ふ菩薩の施無畏かみなづき
つくづくと敗戦国の去年今年
九条はいつも上向く姫女苑
団塊の老いし丸腰すててこ派
     

 社会性俳句を自己奨励とする俳人は、激動する社会の在り様の批評意識を詩化することに情熱を傾ける。
 句想を人生の諸相を内面に取り込んで詠む、一般的な表現よりも(それを全面的に否定しているのではなく、共存させつつも)、社会批評的な自己の視座の在り様を表現することを主眼としている。

  先に引いた関根氏の「自選七句」にもその傾向が表れているし、添え書きにもあるように、それをモットーとしている俳人である。
   その二つの傾向を今、仮に次のように呼ぶことにする。

一 内面の象徴造形詠

二 社会批評の象徴造形詠

   俳句という韻文で社会性俳句を詠むときに、文芸としての自立性、文学性(詩性)を保つには、この二つのどちらにも上げた「象徴造形」をする努力が必要である。

   一の内面表現の場合、この「象徴造形」が欠けると、直接的な言葉による、ただの個人的な心情吐露という非文学的な文になってしまう。

    二の社会批評の場合も、この「象徴造形」が欠けると、同じように直接的な言葉による、主義主張を述べるスローガン言語となってしまう。

   特に注意が必要なのは、二の社会批評詠の場合、季語との取り合わせが、そのスローガン性を少し和らげて、俳句文芸らしくなる効果があるが、それに依存してばかりいては、自立的な詩性を獲得することは難しい。

   関根氏の師である大牧広の句集は、この一、二の割合のバランスが良く、また「象徴造形」がしっかりした、他の追従を許さぬ完成度の高いものだった。

    大牧広の跡を継ぐ志を有する俳人たちは、関根氏が「添え書き」でも述べている、「地球上に何が起きているか、しなやかな詩精神で詠む」だけでなく、この二つのバランスと、「象徴造形」表現に真摯に取り組んでいるのである。

   関根氏の第一句集『地球の花』は、その意味でも、この二つのバランスもよく、社会詠も「象徴造形」がしっかりした句集だった。

   第二句集『三年』の自選句を、これに当てはめて分類すると、次のようになるだろろうか。

一 内面詠

生きてゐる証し詠み継ぐ桜かな

母といふ全き師あり衣被

団塊の老いし丸腰すててこ派

二 社会詠

核祓ふ菩薩の施無畏かみなづき

つくづくと敗戦国の去年今年

九条はいつも上向く姫女苑

そして、

相棒と吾は別姓リラの花

は、内面詠でもあり、社会詠でもあるだろうか。

 関根氏自身も内面詠と社会詠を半々の比率で選んでいることになる。本編の比率も同様でバランスが取れている。

 表題になっている『三年』という言葉。
    何故「三年」だったのか、ということに思いを馳せる。
    先ずは、師無き後の三年という意味だろう。
    つまり先行する灯なき、手探りによる自立歩行の三年だったということだ。

 そして第一句集上梓からの三年の模索結果の、緊急上木という意味もあるだろう。
   第一句集からの時間が短いことに、この第二の「三年」の意味がある。
   緊急性の高まった三年だったのだ。

   日本、いや世界全体の社会的な様相が、違和感を唱えずにはいられない、社会倫理が全崩壊に向かう危機的状況だった。
 だから、関根氏は大牧広を継承する社会派俳人として、正直、真摯にその問題に取り組む必要があり、その結果として社会詠が増加し、一度纏めてみることで立ち止まり、沈思黙考する時間を獲得しようとしたのかもしれない。

   この三年、関根氏は誠実さゆえに、全面的な戦闘態勢を組んで挑み続けたのだ。
   その社会詠の果敢さは、さすがに大牧広の薫陶を受けた俳人である。

 

国策の落し子こぞり敬老日

この国のデモなき平和ハロウイン

納豆の朝餉よく嚙む開戦日

荼毘待つ少年にねんねこを着せむ

沖縄の燃え尽きぬものどんどの火

伐採の札さげられし樟芽ぐむ

語部は胎内ヒバクシャ夾竹桃

地球いま働き蟻の雨宿り

ゲルニカの馬の目射抜く大西日

軍艦のやうに空へと兜虫

行けど行けど棄民の色の芒原

少年の部屋に本なし文化の日

九条はいつも上向く姫女苑

 

 個人的な感想だが、ここに上げた句は象徴性や、季語との取り合わせによる詩性がある社会詠のように感じたものだ。
   他の社会詠の句は、やや直接的な言葉による社会批評詠が多いような印象を受けた。
    社会評論性が強い分、詩性が後退しているように感じるのはそのためだろう。

    だが、それはそうなることを厭わず、戦闘態勢を組まざるを得ない緊急性を感じ取る、関根氏の社会に対して敏感な矜持によるものだろう。

    蛇足だが、関根氏の社会詠の果敢さに拍手を送りつつ、個人的には自省的、内面的、隠喩的な次の句も、より好きである。

 

 白菜は重しに抗し水を吐く

 白鳥の見せぬ一つに足の色

                                                                                                                ― 了

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?