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行方克巳句集『素数』『晩緑』考  ―無常観の中で育むしなやかな自己肯定の思想 1

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 行方克巳の前句集は『素数』という魅力的な題名だった。
 素数は1より大きい自然数で、正の約数が1と自分自身のみである数のことだ。最小の素数は2で無数に存在する。
2, 3, 5, 7, 11, 13, 17, 19, 23, 29, 31, 37, 41,・・・・・
その発生周期の謎、未解明の原子物理学的なある周期性との近似性、素数の無限性の証明の可不可など、その尽きせぬ神秘性において、数学者と科学者たちを魅了し続けている。
 実はこの素数、俳句の五七五と合計十七という音数とも縁が深いのだ。元号「令和」の命名者で、万葉学の権威、中西進が句集『素数』に「素数詩としての俳句」と題した「序」を寄せている。中西進は、その「序」で次のように俳句と素数の関係を典雅に解題している。
「素数には三つの条件がある。公約数がない(割り切れない、といった方がわかりやすい)、正の数、整数(小数点以下がない)。だから五音句も七音句もそして全体の音数十七も素数である。
つまり素数は俳句そのものと内容的に深くかかわっている。もうこれ以上は分析できないことばの中で、堂々と翳りなく存在し、小数点以下などという、曖昧さのない詩こそが俳句だということになる。俳句を素数詩とよぶこともできるだろう。
そしてさらに作者自身の身構えの上にも、素数的態度が要求されるはずだ。」
 そしてその「身構え」が反映されていると中西進が見做して、摘録しているのが次の句群だ。
  素数わが頭上になだれ冬銀河    (神のパズル)
  稲妻に殺がれし頬を盗み見る      〃
  どす黒い心拍ありぬ吾亦紅       〃
  秋出水水鞣すごとくに日ざし濃く    〃
  霧深しマトリョーシカの中は月夜    〃
  かなかなのかなかなかなと揺り返す   〃
  おんぼろぼろろ蝦夷春蟬が泣いてます  〃
  雁風呂の木つ端のことごとく仏     〃
  こめかみに春曙の来てゐたる      〃
  でんでんでんででんと雪の降り募る (冬のかたち)
一蝶の冬のかたちの羽たたむ      〃
 そして中西進はこの「序」を次の言葉で結んでいる。
「作者は自分自身が正の整数としてあるばかりで、他者はもうこの作者を公約することはできない。こうした素数者としての作者もまた、大きな宇宙の営みの中から生を享ける人間なのであろう。」
 まさにこの句集を評するに相応しい評文である。
 行方克巳が「素数」という題名と代表句
素数わが頭上になだれ冬銀河
に込めた思いは、自分という存在の唯一無二性と同時に、無限に存在する同族数の中の固有性、すなわち個としての存在の寂寥感というポエジーと、表現論的には一切をそぎ落とした、簡潔な俳句創造の意気込みだともいえるだろう。
 ここに揚げられたような「素数」性を帯びた俳句だけでなく、多様な内容の俳句も併存する句集である。
それを行方俳句の豊かさと解するか、この句集の純度を損ねていると見るか、意見が分かれるだろう。
ここに摘出された句の含意の深さを鑑みれば、私は「素数俳句」的な俳句に徹した編集の方が、読者に与えるインパクトが強かったのではないかとも思う。
 個人的には特に次の三句の、
かなかなのかなかなかなと揺り返す   
  おんぼろぼろろ蝦夷春蟬が泣いてます  
  でんでんでんででんと雪の降り募る
という口承古謡的などこか寂しげな韻律に、作者の「素数」的思想が滲んでいるようで魅力を感じた。
 多様な表現ができるという俳人としての力量は疑うべくもなく、次の句集である次の句集『晩緑』は、主題一本調子にならず、純文学小説のように多様な伏線、エピソードが鏤められた句集になっている。

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