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新聞スクラップ 水俣病

丸木夫妻の「水俣」、再び世に 母子像の絵、修復経て考証館に展示
朝日新聞 2023年5月1日朝刊

 「原爆の図」で知られる画家の丸木位里(いり)、俊(とし)夫妻が水俣病を描いた絵が、熊本県水俣市にある。広く人の目に触れることなく、一時は行き場も失ったが、修復を終えて再び公開されている。水俣病は1日、公式確認から67年となる。
 作品の名は「水俣母子像」。ユージン・スミスさんの写真で有名な、胎児性患者の上村智子さんが母親に抱きかかえられて入浴している姿をイメージしたものとされる墨絵だ。縦1・05メートル、横4・3メートルの横長の布に描かれたのは、ある舞台を飾るためだった。
 丸木夫妻は1978年、「原爆の図」の巡回展でフランスを訪れた際、来場者に「水俣の話をしてほしい」と言われたが、うまく答えられなかった。79年に水俣に行き、患者たちに会って衝撃を受ける。「一瞬で命を失った原爆も、長い間廃水が流された水俣も、人民がなぶり者にされたという点では同じ」と俊さんは後に語っている。
 夫妻は80年3月、縦2・7メートル、横14・9メートルの大作「水俣の図」を公開する。石牟礼道子さんの小説「苦海浄土」に着想を得て、苦悶(くもん)の表情を浮かべる284人の姿を描いて大きな反響を呼んだ。だが、俊さんは「苦海浄土の苦海ばかりを描いてしまった」と話していた。
 その年の5月、一人芝居で全国を行脚して水俣病を告発し続けた俳優砂田明さんが丸木美術館(埼玉県)で「海よ母よ子どもらよ」を上演した際に夫妻が描いたのが「母子像」だった。
 上演後、鹿児島県境近くの丘にある集会所「みんなの家」に飾られた。水俣病で犠牲になった人間やすべての生きものをまつるために砂田さんが建立した「乙女塚」の近くにあった集会所だ。
 だが集会所は傷みが進み2019年に解体。「母子像」は患者の支援拠点、水俣病センター相思社の「水俣病歴史考証館」に引き継がれた。水俣病1次訴訟で73年に勝訴した患者らが設立し、「苦海浄土」の直筆原稿など、水俣病関係の貴重な資料を約22万点所蔵する施設だ。
 舞台を飾ることが目的だった絵は、長期の保存には適していない布に描かれていた。丸木美術館学芸員の岡村幸宣さん(48)は、保存や展示の方法について相思社から相談を受けた際、劣化してもバラバラにならないよう和紙で裏打ちするなどした上で、積極的に展示することを勧めた。「丸木夫妻は、目に見える形でしっかり使ってほしいとの願いを砂田さんに託したと思われます」
 処置を施した「母子像」は、22年秋から水俣病歴史考証館で展示されている。湿気が高くなる5月中下旬にはいったん収蔵庫に納めるという。
 砂田さんの妻エミ子さん(96)は、今も乙女塚を守り続ける。5月1日に毎年、患者たちの主催で慰霊式が営まれている。塚には、母子像のイメージとされ、21歳で亡くなった智子さんの遺品も納められている。エミ子さんは「たくさんの人に、この大切な絵もみてほしい」と話す。同館は土曜休館。問い合わせは相思社(0966・63・5800)。(今村建二)

水俣病67年、慰霊式に620人
朝日新聞2023年5月2日朝刊

 「公害の原点」とされる水俣病が公式に確認されてから1日で67年を迎え、熊本県水俣市で犠牲者慰霊式が営まれた。コロナ禍で中止や規模縮小が続いたが2019年以来の通常開催となった。
 今年は患者や遺族、西村明宏環境相、蒲島郁夫知事、チッソの木庭竜一社長ら約620人が参列。会場が久々に出席者で埋まった。
 これまで3万2901人が水俣病の患者認定を申請してきたが、4月30日現在で認定されたのは2284人。うち2038人が亡くなった。いまだ被害の全容が明らかになっておらず、患者団体は幅広い救済のための調査実施を求めている。
 この日、西村環境相は調査実施は明言しなかった。調査の前提となる「調査手法の開発」についての専門家による研究班を「できれば夏ごろまでには立ち上げたい」と述べるにとどめた。
 水俣病は、化学メーカー・チッソが流した、メチル水銀を含んだ廃水が原因で引き起こされ、1956年5月1日に保健所に患者の発生が届けられた。92年に市主催で始まった慰霊式は主にこの日に営まれてきた。(今村建二)

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