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おおしろ房句集『霊力<世事>の微粒子』


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おおしろ房句集『霊力(セジ)の微粒子』 

                                                         コールサック社2021年8月刊
                               

〇 「解説」(鈴木比佐雄)より抜粋

 おおしろ房氏が第一句集『恐竜の歩幅』に次ぐ第二句集『霊力(セジ)の微粒子』を刊行した。この二十年間の作品から俳人で夫のおおしろ建氏とも相談した選句という三八二句が収録されている。二人は、野ざらし延雄氏が主宰する「天荒俳句会」の創刊同人であり、おおしろ建氏は同人誌「天荒」の編集や事務局を長年務めている。野ざらし氏は句集『恐竜の歩幅』の解説文で、二人との出会いについて触れている。野ざらし氏が一九八一年に宮古高等学校に赴任し、「天荒俳句会」の全身である「耕の会」を発足し俳句の土壌を作ろうと志していたところ、数学の教師であったおおしろ房氏と国語教師であったおおしろ建氏たちが参加してくれたのだった。その会が発展して現在の「天荒俳句会」になったと記している。また野ざらし氏は当時の思いとして、五〇年前の一九三一年に同じ高校(旧制宮古中学)に赴任した篠原鳳作の姿と自己とを重ねていた。鳳作は鹿児島出身で、初めは「ホトトギス」や「馬酔木」などにも投句していたが、東大を卒業し帰郷した一九三〇年の二十四歳の時に福岡市の吉岡禅寺洞の無季俳句を試みる「天の川」に投句し始めた。その中の一九三四年に発表した「しんしんと肺碧きまで海の旅」は「馬酔木」の水原秋櫻子をして「この句より鳳作は無季第一の作家である」と言わしめた。沖縄をテーマにした名句を詠んだ鳳作は一九三六年に三〇歳の若さで亡くなり、その才能や詩魂を惜しまれた。野ざらし氏はこの鳳作の撒いた俳句の種を育て豊かに開花させようと、子供たちへの国語教育や「天荒俳句会」を通して実践してきたのだろう。
 「天荒」を開けると《「天荒」は/荒蕪と/混沌の中から/出発し/新しい俳句の/地平を拓き/創造への/挑戦を/続けます》と俳句文学運動の理念を掲げている。野ざらし氏は芭蕉の原点を問いながらも、「新しい俳句の/地平を拓き/創造への/挑戦」を実践されてきたのだろう。
 野ざらし氏は、第一句集『恐竜の歩幅』の解説文「闇の突端を耕す」の中で次のようにおおしろ房氏の俳句の特徴を指摘している。

 《房作品の特徴は感性の弦が高鳴っていることであろう。肉眼では見えない世界や音の無い世界を胸泉へ引き寄せ、臨場感溢れる詩世界を構築する。作者の鋭い詩眼は、表層的・生活的・既知的・日常的世界を、深層的・想像的・未知的・非日常的世界へと移転させる。》

   このようにおおしろ房氏の特徴を、日常世界を「深層的・想像的・未知的・非日常的世界へと移転させる」ことだと語り、さらにおおしろ房氏の精神が独自の圧力をかけて、未知の創造空間を作り出してしまう資質に野ざらし氏は気づいてしまったのだろう。最後におおしろ房氏の句「体中涙腺にして蛇の脱皮」を挙げて、その俳句作家としての「闇の突端」を突破する力があるとその句を高く評価する。野ざらし氏は「天荒」の六〇号の評論「沖縄を掘るー孵(す)でる精神」で、自らの俳句精神を「孵(す)でる精神」であり、それは沖縄の「おもろそうし」(沖縄・奄美地方に伝わる古い歌謡)に流れている沖縄の魂を、「蛇の脱皮や雛の孵化のように再生する」ことだとその本質的課題を解説している。野ざらし氏にとっておおしろ房氏は自らの俳句精神を体現する有力な作家であると考えているのだろう。(略)

〇 「あとがき」(おおしろ房)から抜粋
(略)
 私が生まれた時から沖縄は、アメリカの統治下にあり、日本復帰してもその現状はさし変わらない。ゴザの街で育った私にとっては、基地は当たり前の風景だった。俳句を作ることで、アイデンティティについて考えるようになった。
(略)
 コロナ禍で世の中が大きく変わろうとしている中で、「今、自分ができること」を考えてみた。大きな世界の流れの中では、ちっぽけな存在である私が「霊力の微粒子」のように輝いて生きていたことを感じていただけたらと思う。
(略)


〇 野ざらし氏よる選出句

  失速の地球を引っぱる揚雲雀
  屋久杉の千手観音時空巻く
  鰯雲死へのプログラム解除します
  西瓜割る肉弾の恋は終わります
  ジャズは木枯し心のうろこ吹きとばす
  目の矛で耕していくトルコ紀行
  ニライカナイへ塔カルストは船の先
  白菜や太陽の翼になりたくて
  春一番人工骨も動き出す
  朧夜や水道管をジャズ流れ
  蝸牛夕陽のよだれのような後悔
  春雷や昏睡の母は避雷針
  雨粒が潰れ出てくるエゴイズム
  大脳にゴキブリはりつく熱帯夜
  十・十忌幾万の霊と綱を引く
  遮断機に切られていく認知症の月
  神女(カミンチュ)の勾玉に乗るニライカナイ
  大津波陸に墓標を立てて去る
  光年の孤独弾いて独楽廻る
  原発の臍の緒つけた初日の出
  月光を身体に溜め蛇の脱皮
  啓蟄や床下で蠢く放射能
  片(カタ)降り(ブイ)や彼岸此岸の綱を引く
  地球が廃炉になるまで鳥渡る
  沖縄忌影持たぬ人とすれ違う
  哀しみの眼球となるジャボン玉
  梅雨晴れ間ガラスの仮面外します
  夕立や原子炉で孵化する疑惑
  石蹴って死期を決めてる山桜
  降り注ぐ霊力(セジ)の微粒子東(アガリ)御廻り(ウマーイ)
  余生とは噴水の上に乗っている
  虚無の世に尾を入れている瑠璃蜥蜴
  人権が溶け出してゆく陽炎かな
  月裏で策略巡らす枯蟷螂
  月の嘘土の真実かぎ分ける
  海鳴りの闇に沈むか百按司(ムムジャナ)墓(バカ)
  鳥渡る地球の動悸激しくて
  殺意ならひまわり畑が震源地
  浜下りや外反母趾のえら呼吸
  浜下りやホモ・サピエンスは戻れない
  新聞に畳まれている蟻地獄

  
〇 野ざらし延男による句鑑賞の一部抜粋

  ニライカナイへ塔カルストは船の先
 ミラムイは沖縄本島北部の本部(もとぶ)にあるカルストの山の一つで「本部富士」と称されている岳である。カルスト地形とは石灰岩地域にできた地形の総称で、沖縄のカルストは熱帯カルストと称され、塔カルストと円錐カルストに分れる。
  沖縄の現実は軍事基地の要塞となり、平和な生活が著しく侵害され、前途に明るい光は見えない。この句はこのような重苦しい閉塞感を払拭してくれるようなダイナミックでスケールの大きな作品である。ニライカナイは沖縄の土着信仰のひとつで理想郷を意味する。現実には動かないカルスト山を帆船に見立て、先端部の尖った部分を帆と感知し、ダイナミックに波と風を切って進んでいくイメージ。空に突き出たカルスト岳は塔のように聳え、山頂には雲がたなびき、風が吹く。雲は大海原の雲になり、風は帆船の帆を膨らます。時機到来、沖縄のニライカナイ(理想郷)へ向かって順風満帆のカルスト船の出帆である。

  十・十忌幾万の霊と綱を引く
 「十・十忌」とは「一〇・一〇空襲」の日のこと。一九四四年十月十日、米軍による南西諸島への無差別大空襲があった。とりわけ那覇市は集中攻撃を受け、市の九〇パーセントが灰燼に帰した。一九七一年十月十日に「那覇大綱挽」が実施され、今は「那覇まつり」の一大イベントとしてギネスブック級の大綱を挽く。
 戦死者の鎮魂と平和を祈念し、「幾万の霊と綱を挽く」のは十・十忌ならではの綱挽である。沖縄の心根を表現した句である。
  
  神女(カミンチュ)の勾玉に乗るニライカナイ
 神アシャギの儀式と御願(ウガン)爬龍(バ)船(リ)競漕(ー)を見学した。この二つの行事を神事の儀式らしく、現実を越えた世界としてイメージし、再構築した作品。古代の装身具とされる勾玉を句の中心に置き、陸上のシマの神女と海上の理想郷のニライカナイを上下に配して句の奥行を深くした。翡翠の巴型の勾玉に乗っているのは髪の長い白装束の神女。この神女は塩屋湾を抜け、大海原へ出て、ニライカナイの理想郷を目指す。神女の白装束の白、勾玉の緑色、ニライカナイの海の色、彩色が鮮やか。

  片(カタ)降り(ブイ)や彼岸此岸の綱を引く
「片(カタ)降り(ブイ)」は沖縄の言葉。驟雨、夕立の意である。一方は太陽の光が射し、片方は雨が降っているという意から「片降り」の言葉が生れたのだろう。片降りは現実世界を一変させる。手前は雨の壁ができ、遠方は太陽光が降り注ぐ。この現象から、彼岸(太陽光の世界)と此岸(雨の世界)の想念が生まれた。片降りの雨群は時には集団移動する。この雨の動きが「綱を引く」の表現になった。異次元的世界を巧く詩的に表現した句。  

  降り注ぐ霊力(セジ)の微粒子東(アガリ)御廻り(ウマーイ)
「東(アガリ)御廻り(ウマーイ)」とは知念・玉城(沖縄本島南部)の聖地を巡拝する神拝の行事。首里城を中心にして、大里・佐敷・知念・玉城の各間切(マギ)りを東方(アガリカタ)といい、このルートの拝所巡りを「東廻り(アガリマーイ)」と称した。
 首里城園比屋武(すぬひやん)御獄(うたき)から玉城(たまぐすく)グスクまでの十か所の聖地に繋がっていた「念(おも)い」は王権んと神の存在であり、霊力(セジ)であった。とりわけ、世界文化遺産の「斎場(せーふぁ)御嶽(うたき)」は琉球王国最高の聖地とされ、聞(きこ)得(え)大君(おおきみ)(琉球の信仰の最高位の神女)が祈願した聖地である。一番座の拝所「大庫(ウフグー)理(イ)」や二つの岩が造り出す三角形の空間の「三庫(サングー)理(イ)」の拝所には強く霊力が働いていると感じた。神の島久高島を遥拝できる奥には太陽光が目映く降り注いでいた。この神域の雰囲気を詩的に「霊力の微粒子」と表現した。感性が生み出した作品。

  海鳴りの闇に沈むか百按司(ムムジャナ)墓(バカ)
「百按司墓」は多くの按司(貴族)が葬られている。墓は洞窟を利用して造られ、遺骨や骨壺などが無造作に置かれている。墓は高台の斜面に位置し前方には海が見える。海鳴りは按司たちの悲哭。歴史の闇に埋没した按司たちの悲哭は沈んだままなのか。生者の姿勢が問われている。

  浜(ハマ)下り(ウイ)や外反母趾のえら呼吸
「浜(ハマ)下り(ウイ)」は陰暦三月三日の行事。浜に下りて海水に身体を浸して身を清めるという民間信仰による。現在はこの民間信仰は薄れ、家族揃ってのピクニック的要素の強い潮干狩りの行楽になった。このような時代の流れは「浜下り」行事尊重派からすれば外反母趾的な歪みを感じるのであろう。ニンゲンの足が水中に入り、鰓呼吸をしていると把握した視点が、ニンゲン生活の呼吸困難を起こしているような、生きづらい現代人の屈曲感が表現されている。
 俳句紀行地の「海中道路」の前方には石油コンビナートの平安座島がある。かつては熾烈な反CTS闘争のあった場所。今は何事もなかったかのように静かに石油タンクが林立しているが、激動の時代背景を句の裏に読み取れば外反母趾の痛みも更に深まるであろう。
(二〇一八年三月「海の生き物観察」俳句紀行)
     

※武良 註
 反CTS闘争について知らない人のために、琉球新報社の新聞記事を参考として次に転載しておく。「琉球新報」2020年11月6日の記事。

崎原盛秀さん死去 86歳、「反CTS闘争」をけん引

「金武湾を守る会」代表世話人として石油備蓄基地反対運動(反CTS闘争)をけん引した、学び考え行動するうるま市民ネットの元共同代表、崎原盛秀(さきはら・せいしゅう)さんが4日午後5時6分、病気療養中のところ、うるま市の自宅で死去した。86歳。西原町出身。自宅はうるま市喜屋武。告別式は6日午後3時から3時45分、うるま市兼箇段1740の1、セレモニー中頭で。喪主は妻千代子(ちよこ)さん。 
反CTS闘争に続く白保の新石垣空港建設反対運動、東村高江へのヘリパッド建設からやんばるの森を守る闘いなど数々の住民運動の第一線に立ち続けた。2012年に最高裁で訴えが棄却された靖国合祀(ごうし)取り消し訴訟の原告。
沖縄平和市民連絡会の事務局長を歴任した。近年は、辺野古新基地建設の反対運動にも関わり、「沖縄人の人権、人間としての尊厳、生存権をも無視する不条理な政治を沖縄民衆は直視し、緊張感を持って対応しなければならない」と語っていた。
   

 ※


  浜(ハマ)下り(ウイ)やホモ・サピエンスは戻れない
 ホモ・サピエンスは現生人類の学名。「ホモ・サピエンスは戻れない」は人類の方向性の原点を問うている。「浜下り」の行事も身を清めるという原点を問うている。浜下りを批評眼で捉えた句。


〇 『霊力(セジ)の微粒子』を読む

 沖縄の俳人の方からの、初めての句集のご寄贈を賜った。
 沖縄の俳句表現については、本ブログで二度触れたことがある。
 その一つが「コールサック」誌の『沖縄詩歌集~琉球・奄美の風~』における「二章 俳句 世(ゆ)果報(がふう)来い」という評文で、俳人の鈴木光影が、その意義について書いていることを紹介した。
 鈴木光影の評文の冒頭と結びの部分を以下に摘録する。

    ※

〈冒頭〉
 これから私が行う「二章 俳句―世果報来い」の解説では、いくつかの俳句の沖縄・奄美特有の言葉や季語について補足説明し、その句への鑑賞を加えたい。また以下には、本土に生れ育った筆者の立場からの論であり、本土の俳句の季節感覚や季語とは異なる沖縄・奄美のそれを楽しみつつ書きたい。その土地特有の季節感覚や季語に出会うことは、その理解への第一歩となるはずだ。もちろん琉球王国時代や沖縄戦の歴史、今も続く基地問題を扱った俳句からは、本土の住民の一人として、現地の人びとの真実を知り、己を省みる経験となる。(略)
〈結び〉
 沖縄・奄美という土地を詠むとき、五・七・五の十七音を基調とする短く小さな定型詩、俳句は、小さく無力な一粒の涙なのかもしれない。本書においてその一粒の涙は、ときに美しく輝き、ときに優しく温かく、ときに激しい怒りや悲しみをもって流し落とされた。俳句章には沖縄・奄美出身者そして在住者、沖縄にルーツを持つ者、沖縄に思いを寄せる本土在住者、物故者も含めて四十四名が参加した。それぞれ生まれた場所やバックグラウンドは違えども、沖縄の「世(ゆ)果報(がふう)」(豊穣平和)を願う気持ちは変わらないだろう。現代においてそれは、多様性を寛容し合い、差別や暴力の連鎖を断ち切る世界への希求ではないだろうか。多様な一句一句、一粒一粒の涙が集まった本書が、沖縄・奄美の地へ、うりずんのような豊かな潤いとならんことを祈っている。

     ※

  この書でおおしろ房の次の句を読んだ記憶がある。

   芭蕉布の衣で隠す混血児               おおしろ房

 この複雑な思いを句の背景に感じさせる表現は、「ナイチャー」の私たちには、とてもできないと感じたことを覚えている。
 ちなみに「ナイチャー」の鈴木光影と私が投句した句も引いておく。「ナイチャー俳人」を二人が代表しているという意味ではなく、本稿で触れた二名というだけのことである。

   ナイチャーへ破顔シーサー沖縄忌           鈴木 光影
   遥かなる卯波金網肝苦(ちむぐ)りさー         武良 竜彦
            注 拙句の「金網」は基地を象徴したつもり。

 鈴木光影と私は沖縄のことばを使って詠みたいと志して投句しているところが共通しているが、そのことを自身について述べたい訳ではない。
 やはり沖縄のことを思って句を読もうとすると、その独特の文化の厚みを感じる沖縄のことばを用いて詠みたい誘惑に駆られてしまうということを述べたかったのである。
 逆に本土標準語で沖縄を詠むことの方に、違和感を抱いてしまうのだ。
 ここに沖縄のことを俳句で詠むある種の難しさがある。
「ナイチャー」が沖縄について詠むと、「沖縄問題」を詠みたがる傾向がある。どうしてもそのような意識が先行する。「沖縄問題」というふうに感じているようでは、俳句表現としては表層表現に留まることになる、というジレンマに陥る。
「沖縄問題」は「日本問題」に他ならず、そこに抜き差しならぬ当事者意識の「深度」が問われていることを自覚するからだ。
鈴木光影も述べているように、沖縄の俳人が、沖縄の言葉で詠んだ句について、その語義を調べて鑑賞するのは、より深くその風土性と生活のリアリティに触れる歓びと愉しさを感じる。
 沖縄の俳人が過去の戦争や今の基地問題を含む現代的課題だけでなく、沖縄の日常的リアリティをもつ表現の中に包み込まれるように表現しているのを読むと、私たちのジレンマが解消されるような、清々しい気持ちになる。
 おおしろ房のこの句集には、この二十年の暮らしの実感と、その背景に厳然として存在する「沖縄という日本の課題」が、スローガン的な言語を廃した、詩的な言葉で表現された世界が豊かに展開されていて、独自の「闇の突端」を突破する創造力で、句集に深い統一感を与えている。
「ナイチャー」が触れたいと願う沖縄俳句の真髄は、こういう世界だと思うのは、私だけだろうか。
 
 寄贈句集を本ブログで紹介する方法として、必ず私自身の感想を添えているが、本句集については、それはやめておきたい。
 なぜなら、先に引用した野ざらし延男による秀句選出と、その深い鑑賞文が添えられているので、私の感想文など無用に感じられるからだ。
 今回は本句集からの引用紹介だけにさせていただく。
 本句集の、「ナイチャー」的な季語絶対主義からは無縁な、自由で豊穣な世界を味わっていただきたい。
 季語を使っていても、歳時記的情緒とは異質の空気感に包まれるような表現の句ばかりである。                    ――了


  


 


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