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守口三郎著『劇詩 受難の天使 世阿弥』   ――癒しと救済を希求する求道的精神世界

                      コールサック社 寄贈書

詩劇 受難の天使 世阿弥

2017年9月7日、守口三郎氏著の『劇詩 受難の天使 世阿弥』という、ジャンルで言えば詩の本が、コールサック社から上梓された。
「受難の天使」と「世阿弥」という二編の「劇詩」が収録されている。
そして、韻文図書では珍しいことに、巻末に著者による詳細な、作品の「主題」をめぐる解説が収められている。
韻文でも小説でも通常、作者自身が同じ書物のなかで、作品の一番大切な「主題」をめぐって詳しく解説することは稀である。文学作品で表現された「主題」は、読者が千人いれば千の「主題」を読者それぞれが受け止めるものであり、作者にどんな表現意図があろうと、一つの「解」を示して、読者に押し付けるものではないというのが、常識的な見方である。
だが、この著者の守口三郎氏は、詳細な解説を敢えて収録している。
それはなぜか。
そんな問いから、この本の紹介に入るべきだろう。
その理由の一つは、「劇詩」というあまり一般的ではない表現形式への読者の戸惑いに配慮した故のことだろうと思われる。
そして、もっとも大事な点は、能という古典芸能の世界で、世阿弥が確立した「夢幻能」という表現形式を基調とし、そこから上演を条件としない、純粋なことばだけによる「劇詩」という独創的な表現方法を産み出した作品であり、それを鑑賞するには、読者にそのことへの基本的な素養が要求される作品である、ということだろう。
「夢幻能」と聞いて、どれだけの人が即座に了解できるだろう。
日本の貴重な文化であり、古典的表現方法なのに、その文化が広く現代日本人に共有されていないという問題が、ここに横たわっている。
守口三郎氏にはそのことについての危機意識があり、巻末に敢えて自作の表現意図の解説を収録されたのだろうと推察される。それを読むことで、本編に対する私の理解も深まった。「能」の世界に馴染みのない読者にとって、この「解説」は不可欠のものだったといえる。
その解説「後書にかえて 作品の成立事情と主題」の中で、守口三郎氏はこう述べている。

三十代から私は舞台での演能を観劇し、能本を読んで能楽の世界に親しむようになった。 
その強烈な魅力は、詩と音楽と舞踊が渾然一体となって舞台上に表現する比類ない型の芸術美にあり、また能の簡勁な形式の奥深い表現力にあった。私は能の様式美をそなえる劇
詩(上演を直接の目的としない劇的形式による詩作品)の創作を漠然と予感し、折に触れて着想した幾つかの素材をノートに書き留めておいた。


そうやって「書き留め」られた「素材」が熟成されて、この本に収録された二編の「劇詩」となって結実したのだ。
若いとき、日本の古典にこのような幸福な出会いをして、自分の精神世界を豊かに耕しつづけた日本人が、今、どれほど存在するだろう。そんな経験をする人が少なくなってきていることに、自国の文化を大切にしない現代人の精神的な荒廃が透けて見える。

本書の紹介に入る前に、「能」の予備知識について先ず触れておこう。
能の曲趣は「現在能」と「夢幻能」の二つに大別される。
「現在能」は、主人公(「シテ」という)が現実世界の人物で、物語が時間の経過にしたがって進行する。その劇的状況に置かれた人間の心情を描くことを主題として、対話的な言葉のやりとりが中心となって物語が展開する。
「夢幻能」では、神、鬼、亡霊など現実世界を超えた存在がシテとなる。通常、前後2場構成で、歴史や文学にゆかりのある土地を訪れた旅人(「ワキ」という)の前に、主人公(シテ)が化身の姿で現れる前場と、本来の姿(本体)で登場して思い出を語り、舞を舞う後場で構成される。
本体がワキの夢に現れるという設定が基本であることから「夢幻能」と呼ばれている。
「夢幻能」の様式は世阿弥が確立した。世阿弥は舞台における芸の魅力を自然の「花」に例え、心と技の両面から探求した。世阿弥は「花」の美しさ自身を写実的に表現しても、それを観るすべての観客が美しいと感じるわけではないとして、花の具象から離れて、花の本質を掴み出し、それを独自の舞台上の芸によって象徴的に表現することで、観客の想像力に働きかけ、舞台の上には「ないはずの花」を、観客一人ひとりが「心の中に美しく咲かせる」という表現方法を産み出した。
考えてみれば、この方法は芸術全般にいえる表現原理ともいうべき方法である。
文字で表現する韻文でも小説でも、作者は「花」が「美しい」というような直接的な説明的表現をせず、独特の表現によって、読者に「花」の「美しさ」を自由に感受させるように工夫を凝らして表現する。つまり、「主題」を言葉で説明せず、読者の心の中に「主題」が書きこまれるようにする、という意味で、世阿弥のこの表現理論は、普遍的な芸術的方法論であると言えるだろう。
「夢幻能」は「幽玄」という言葉で表される深い抒情性を備えた美を表現の基調とする。
主に古典文学に素材を求め、舞を舞うに相応しい主人公を造形し、和歌的修辞を凝らした流麗な「謡」という「文体」で表現される。「謡」は能の情趣を引き出す根幹であり、独特の調子、発声、節回しを備えている。
「謡」と並んで能の根幹であるもうひとつの「舞」は、通常の舞踊のような写実的な身振りや物まねの表現はしないで、「謡」や「拍子を主体とした音曲」に乗って、摺り足で舞台を歩み、袖を翻すなどの動きを繰り返す、高度に象徴的な表現をする。そのことで、演じる者の心のありようを観客に伝える。例えば、その究極として舞台に座して動かずにいる場合がある。通常の舞踊では考えられないことだが、それが「謡」の詞章や音曲のリズムと混然一体となって、観客の想像力に働きかけ、観客の心の中に「花を咲かせる」のである。
守口三郎氏は、この「夢幻能」の表現方法を、独自の新しい「劇詩」として新たに創造しているのである。
以上「能」の基礎知識を頭に入れてもらった上で、作品の紹介に入ろう。

「受難の天使」
 最初の構想は次のようだったと著者は述べる

 この素材は次のような粗筋からなる前場・後場の二部構成による複式夢幻能の形式を模
したものだった。コーカサスの山中で旅の修道士(ワキに相当)が土地の老人(前シテに 相当)と出会い、小屋に案内される。老人は修道士をもてなし、山小屋で病苦に耐えつつ独り暮らしをしている身の上を打ち明け、周期的に襲う病苦を語り、彼の病のための祈祷を加えるよう頼む。翌朝、修道士が山路を登ると、岩壁の炎の中に、縛られたプロメテウスの霊(後シテに相当)が出現する。驚いて問う修道士にプロメテウスは原始時代から現在に至るまで愛する人類の罪を償うために苦しみを受けていることを打ち明ける。修道士が祈るうちに、岩壁の炎が消えて、光る雲がプロメテウスの霊を包み天へ運び去る。

だが、もっと主題を鮮明にするために、著者は次のように構想するに至る。

 劇詩の制作に着手したとき、私は複式夢幻能の形式にとらわれているのに気づいた。人類に火と技術を伝えたために責め苦を受ける半神プロメテウスの神話は、人間精神の運命を象徴する物語として古代から哲学・文学の思想の対象となり、時代精神の変化とともに多様な解釈を生んできた。プロメテウス神話が内包する精神史的な含意、その思想の奥深さは、叙事形式の物語として解釈する必要があった。私は複式夢幻能の形式への固執から解放されて、制作を進める過程で劇詩の素材を大きく変形した。
 最初に意図した苦しみの主題が個人のレベルを超えて民族、さらに人類の苦しみにまで拡大されたために、前場の土地の老人を単なる病人ではなく、コーカサスやパレスチナの
民の歴史を通じて戦争と平和について話す語り手とした。老人の病苦は、後に岩山の洞窟内で呻吟する老人の苦しみで表現し、その劇的効果を強めようと試みた。
 またプロメテウスのイメージを発展させて、人間精神の発達に助力する天使に変え、人類の罪の贖いのために苦しみを受ける天使に人類の心の歴史を語らせた。さらに人類の精
神の運命と回心の必要を説き、苦しみの秘義と救いの道を告げ知らせる正義の天使を導入した。
 その結果、登場人物が各々の立場から物語を展開する緩やかな構造をそなえる作品となった。劇詩の様式が、人間の意志と行為の現在を表現する劇的要素の外に、事象の展開を
客観的に物語る叙事的要素、個人的体験の感動を主観的に表出する抒情的要素の併存を可能にし、表現するべき思想感情の拡大と複数の声の導入を可能にする柔軟で寛容な形式に
なり得ることを、この制作の体験によって私は知った。

このような主題の「劇詩」が、どのような言葉で表現されているか、そのほんの一部を以下に紹介する。

◎修道士の問いの場面。

旅の修道士

人類が創造されて以来 長い原始時代を経て 文化を創り出し厳しい環境に適応して 神によって遣わされた尊い天使の導きで知性を高め感情を豊かにして 心を発達させたということは分かります。それなら聖書の語る楽園の状態に置かれていた人類が なにゆえ争い憎み殺し合うようになったのですか?
なにゆえ至福の楽園から追放されたのですか?

助力の天使

その根本の理由は 人知の及ばぬ神秘なのだ。神の思いは 被造の存在である天使の知性をも高く超えるのだ。人が知りえるのは 悪の在り様に過ぎない。人が引き付けられる悪から離れるために 悪の実態を正しく知ることこそ人の本分なのだ。


◎受難の天使が人類の罪とその償いと贖いを語る場面。

罪悪の深い淵に沈んだ人類の悲惨な状態を憐れんだ神は人の姿となり 地上に現れ 罪と死からの救いの道を示されたのだ。主は 人類の心の発達を助ける天使の私にも早くから新しい使命を付け加えられた。私は日ごと岩山に張りつけられ 人の心の根源にある傲慢の罪を償い続けることになったのだ。人類の罪は 神の御子イエス・キリストの受難によって決定的に償われ 神の愛が 人類を赦し生かしている。天使の償いも贖い主キリストの御業の一端を成している。
それゆえ人類とともにある私は人の姿で現れ これからも 毎日この岩壁に縛られて 神の正義に打たれるのだ。

>◎正義の天使が救いの道を述べる場面

これほど人間が罪を犯しても 人類が滅びずに生き続けるのは主の愛の償いがあり その御業を日ごと再現する 助力の天使の力添えで 破滅に瀕した人間の心が悔い改めて正道に立ち返るからなのだ。異国で飢え死にしかけて改心した放蕩息子が慈父のもとに帰る主の喩え話のように罪を悔い改めた心は 主に喜ばれ生かされる。
人間の心は 理性を取り戻し 高慢により思考の絡繰りに堕し 人の道を見失っていた頭脳は 賢明な良心に導かれ謙虚と節制を備えた知性に復位して 知恵の光に照らされ進むべき道を見渡す。
(略)
神は ご自身を譲り与える愛によって宇宙を創造し 無限の愛の御業で統べ給う。
それゆえ万象は 続く現象に場を譲る。それらは 主から受けた内なる愛の本性に従い 自己を超越し 大いなる愛の世界に入り働く。極微の物質も無心の愛で宇宙に流転する。
愛は 自己の存在を譲り与えることであり 万象が関わり合う宇宙の不変の原理なのだ。

 ◎旅の修道士のさらなる問いの場面

     

旅の修道士

主キリストが すべての人を救うために 罪を償う犠牲として ご自身の奉献を続けられ その尊い仲介によって人類が赦され生き続けていることを改めて知りました。
また未来の人々が救われるためには 高慢と貪欲の罪を悔い改め 理性を取り戻して欲望を抑え 節制によって知足の生活に立ち返り 周囲の世界と和して共に生きる
必要があることも知りました。
創造主の御心による宇宙の真理が 万物の自己譲与の愛にあることも悟りました。
それでも人類の罪を超えて 時に人間を激しく撃つ悪からどのように人間は救われるのでしょうか?
なにゆえ 度重なる地震 津波 噴火などの大災害によって罪の無い人々が苦しめられるのですか?

>◎それに正義の天使が応えた言葉

正義の天使

自然の激動は 人間の眼から見れば災禍の悪であるが創造主の眼には災禍ではなく 生きる地球の律動でありその力の放出なのだ。人間は与えられた知性を可能な限り働かせて その激動に対処するべきであり それらを生の試練として認めるべきなのだ。
生きている地球の激動を恨み嘆いてはならない。主の愛の内に息づく大自然の変調から生命が誕生したのだから。
あらゆる存在は 宇宙の律動 形成と崩壊 生と死の流転の中で変動している。古い存在は朽ち失せ 新しい存在が形を成し甦る。この存在の生死の律動は より高い存在への
前進なのだ。
愛によって存在を与えられたものは 苦しみをも与えられる。
存在の苦しみは より高い存在の歓喜へ向かうから。
崩壊し滅びゆく古い存在は 存在の新生を予感し存在の苦しみは 新生の歓喜の光に溶け入るであろう。


 ◎旅の修道士が最後に心情を吐露する場面の言葉

今こそ私は知る。この岩山が私の聖地となったのを。
聖地は名高い巡礼の地に限らない。聖地は至る所にあるのだ。
神が人の心を訪れるとき 心が聖所となり 心の聖地となるからだ。
私の心の聖地が悪に汚されず 変わらぬ聖所であり続けますように。


主に宗教的な理念的対話になっている場面を抜粋したが、全体的には登場人物の独白や、物語の場面描写、とくに素晴らしい自然描写を交えてこの劇詩は語られている。
ぜひ、本編を読んで、人類史的なスケールの大きい作品を味わってもらいたい。

「世阿弥」
 「受難の天使」を完成させた後、著者は次の「世阿弥」の劇詩の構想を練り始める。
 「世阿弥」という劇詩は、なんと「世阿弥」が確立した「夢幻能」という表現の中に、「世阿弥」本人の霊を登場させて、失業して自分の生き方を求めて旅する現代人に向かって、「世阿弥」の生き方、そこから紡ぎあげた仏教的な理念を語らせるという物語だ。
 この着想には瞠目する。「世阿弥」自身を「世阿弥的劇時空で表現」する。
 いつかだれかが着想し、書かれるべき作品だったのではないかと得心する。
 「受難の天使」を書きあげた著者は劇詩の可能性を確信したという。そしてこう述べている。


劇詩の可能性を信じて、私は引き続き同じ形式の作品を構想した。
「世阿弥」の素材も複式夢幻能の形式を模したものであった。この形式において前場のシテは普通の人、現世の人であり、彼の生の現状を表現する。後場のシテは鬼神、天人、
死霊、精霊などの類いで、霊的な存在らしく言葉と象徴的な身振りによって自在に時空を超え、生前の過去を再現して見せたり、霊界での状態を現在化して見せたりする。


前場での「現世の人」である土地の老人と、旅の男が出会い、互いの境遇を次のように語りあっている。
     
旅の男

(略)家内も会社で働いていて 大学三年生の息子と高校二年生の娘がいます。
家内は契約社員で給料は安く身分も不安定ですし 私が無職になったので 家族は先行きの生活不安に怯えています。この酷い不景気で息子は将来就職できないのを恐れているし 娘は進学するか就職するかで悩んでいます。
それでも四十代の峠を越えて失業したのを転機に自分の半生を振り返り これから家族とともに 生きる道を探るために 独り旅に出て このように佐渡の地を歩き続けているのです。 会社に勤めているときは 朝晩満員の電車に乗って 郊外の自宅と都心のオフィスの間を往復して 大都会の人混みと騒音にも馴らされていましたが この佐渡の旅で 巨木の原生林を抜け 山の尾根を辿り 野原に咲き静まる花々 谷川の岩清水 真っ青な大海原 荒磯に寄せ来る白い波濤に 身を置いているうちに 私の中の原始の感覚がよみがえり 根本に立ち返って生きる活力も目覚めてきた 感じがするのです。

土地の老人

そりゃええことよ。都会から離れた海山にゃ人を直す力があるっちゃ。 大都会は 人の心も命も食いもんにする 恐ろしい所や。銭の力が渦のごと何もかも引き寄せ
吸いこんでしまう恐ろしい所よ。
あの戦争で 兵隊に取られ 外地へ遣られた多くの若衆が島に帰って来れんかった。運気の良いわしは 戦地で殺されんで 終戦で島に戻った後 網元に雇われて沖で漁をしとった。そのうち嫁さんをもろうて 男の子と娘っ子も生まれたっちゃ。
せがれが高校を出て漁師になったとき 漁協から借金して小型の船を買い 親子で沖に出て漁に精を出したもんよ。
それも長う続かなかった。台風で船がひどう壊れてしもうて漁がでけんごとなったんや。
せがれは 労賃の安い雇いの漁師にゃならん 借金を済ませて船をまた買うには 都会で働いて金を貯める方が早いと言い張って 東京に出稼ぎに行ったんよ。
建設会社の下請けの作業員になって働いとったが一年後に橋桁工事の現場の事故で死んでしもうた。
急なことで死に目にも会えんやった。都会に出したせえでせがれを若ざかりで殺してしもうた。
娘が嫁いで新潟に行ってから 夫婦だけの暮らしになって二人で磯に出ちゃ藻草や貝を取ってたよ。
母さんは働きもんで 浜のもんやから 秋の取り入れの時になりや 国中(くんなか)に泊まりで出かけて働いとった。
裏の畠で野菜も少し作って お蔭で二人の口が干上がることはなかったさ。
それがあれほど元気もんやったのに 五年前に病にかかり寝返りも打てんほど痛がって 食いもんも口に入れんで痩せ細り とうとう先立たれてしもうた。わしの長年の
連れ添いも命しもうて 沖の向こうに一人で行ってしもうたよ。


このように、簡潔に語られる二人の会話で、戦争を含む日本社会の現状をさりげなく浮彫りにしている。同時にこの作品が現代の劇詩であることを表現している。
現世人はみんなこのような悩み、苦しみ、迷いの中いる。
これをベースに、この劇詩は「夢幻能」の形式を踏まえて、魂の救済の高みへと読者を誘うのだ。また一つの芸術的表現論にもなっている。
次は旅の男が、佐渡に流された「世阿弥」が庵を結んでいたという松林で、野菊の花を手向け、香を焚き、一椀の茶を点てる場面である。

職を失って これから生きる道を求めて旅する私が遠い昔から多くの流人が住んだというこの地に一夜宿り遠流の古人をしみじみと偲ぶのも何かの縁であろう。
七浦海岸で出会い 道連れになったあの老人が話していたように この松林のどこかに昔流人の法師が庵を結んでいたのであれば 今宵供える茶は その清風心空の修行者に
手向けるのがふさわしいだろう。
このコップを花筒として 林で摘んだ一輪の野菊を活けこの小皿を香炉として 一抹の香を焚こう。
丁度よく湯が沸いてきた。この清らかな湯で茶を点てて法師の霊に一碗を捧げよう。


すると、「世阿弥」の霊が現れ、主に厳しい芸の修練に終始した自分のことを語る。著者はそれを史実的な回想に終わらせず、仏教的な精神的深み、高みを目指した求道者、「世阿弥」の姿として描き出している。

されども芸の境地は それにて終わらず。すべて芸には上下の位があるゆえ。仏道を極めたる僧を聖と讃え敬うように 芸の道を極めたる妙絶の達人を芸の聖と讃え人は敬う。悟りに達し妙覚の位に至れる菩薩が 衆生を救い光明へ導くように 芸の妙位を極めたる聖の芸は その妙用により 衆人の心を楽しませつつ 智慧へ導く。
芸道は仏道修行をまねる求道であり 上智の芸に かくも尊き用あれば 芸人も作者も 至境妙花の芸に至るべく芸の向上に努めるべきである。
われも年盛りに 大和補巌寺の住持より禅を学んだ後京の五山に師家の教示を頂き くり返し禅話語録を味わい禅法をもって わが能芸の道を究めようと一途に工夫し
精進したのだ。

されど当代の芸人の有り様を見るに 芸の妙花の悟道を辿らず芸の修行も疎かに 世の常に習い一タの喝采 一日の評判を求め 心なき能を早まり見せる者が多かった。
時分の花を得たる上手も名利に染まり 心驕りて初心を忘れ工夫を極めず 妙花の芸位に上がらず 能下がりて この芸の達人は世に稀であった。大方は能の真実を知らず 正しき修行を身につけず 無明の闇にさまよっていた。
遡るべき源泉に養われざる芸の命は 末技に痩せ細り枯れ落ちて朽ち果てるのみ。この芸道もはや末期に至り衰え滅びゆくかと憂えて 道のため われは跡継ぎに伝えておくべく 能の奥義をさまざまに書き記したのだ。

その後、後継を託した子に先立たれ、一座の破滅の苦難を語った後、その苦しみから抜け出していった心境が語られる。

闇に惑う心の行方は風すさび 燃える炎を身にまとい踏む露草は野火と焼け 縋りつく木は火柱となり極熱の業苦を受けて 狂い廻り 阿鼻の地獄に舞い墜つるなり。

(天人は激しい動きを止めて、面を伏せる)

それ仏の円光は 十方世界を遍照し 念仏の衆生を摂取して捨て給わず。魔道にさえ 阿弥陀の光明さし込めば はっと心は我にかえり おのれを省みて 地獄の猛火 たちまち
清涼の風と化して吹けば 身も爽やかに生き返る心地して老心の妄執は末期の一大事の障りになるばかりと懺悔し座禅して静かに観じ 心の平安を得たり。


そう語り、舞い終わった「世阿弥」の霊の姿を見た旅の男が、心を震わせる様を次のように表現している。

(傍白)今は直面(ひためん)の慈顔の天人が 静かに白衣を拡げ舞っている。何と妙なる幽玄な姿! 黒い嵐は過ぎ去り海波も静まり 澄みきった大空の満月が皎皎とかがやき涼しい夜風の松林を静寂に照らしている! 清らかな月光の中 天人は舞い納めて立っている。


次が感動のクライマックスである。

禅定の無心は観じたり。近くは大和紀伊の山々 遠くは瀬戸の潮路を谷間とし 西海へ広がる諸国 北国の果ての海には遠き船路あり 遥か彼方の海上に 黄金の島も浮かび見えたり。東北の国々は 山並遠く打ち続き 処々に雲を抜く白衣の霊山の高嶺も見えたり。

景色は変じ無礙(むげ)の慈光を浴びて 憩い静まる山野草木なべて内より光を現し わが身心をはぐくみ 無量光もて世界を荘厳し 麗しきものを慕いて 高みに憧れ わが行く道を明かく照らせり。

心の鏡に映る海幸山幸 花果五穀 鳥獣家畜 ことごとく人界先祖の生を養い 父母生み給いしわれを養い育て過去現在の世の万象 一切の衆生が無辺の光を放ちわが命を養いたるを観じたり。

十方世界の万象の慈悲の光は いよいよ増して虚空に広がり たちまち押し寄せ 心を包み 解脱の心は光明と化し 歓喜して 万象の光の天河とともに無量光の本源に引き寄せられたり。光明を恋い慕う心の光は 光明の源へ帰るなり かくのごと。

重要な場面と思われるところだけを抜粋して紹介したが、全編を通読してこのラストに至る感動を、ぜひ本書を読んで味わっていただきたい。
 
 守口三郎氏は、「受難の天使」と「世阿弥」の主題を比較して、次のように解説している。

 前者はキリスト教思想を背景とし、後者は仏教思想、特に禅思想を背景としているので、異なる宗教の精神世界を表現しているように見えるが、
苦悩する人間の救済という根本の主題において二篇は共通している。前者では、人間が個人のレベルでも民族・人類のレベルでも回心と神の信仰によって救われることを語り、後者では、人間が回心と悟りを求める
修行によって救われることを語っている。佐渡へ流された後の世阿弥の消息は、伝存する小謡曲舞集の「金鳥書」と金春大夫(禅竹)宛書状一通によって窺い知るだけで、その終焉の地も没年も不明で世阿弥晩年の実像は謎に包まれている。私は、神仏に帰依し、悟りを求め続けて救われる人間を想像して描いた。
 前の作品では、天使が苦しみの秘義を説き、苦しみと死の過ぎ越しによる新生を告げる。後の作品では、天人が苦しみを超克する禅定による解脱を語る。宗教の教理、言語、制度などに相違があっても。宗教的精神の超越作用、宗教的実存の超越志向は、すべての宗教に共通している。
宗教体験を生きる実存は、神あるいは絶対者を求め超越して止まない。キリストを求める修道者の道と悟りを求める仏道修行者の道は通じ合う道であろう。宗教間の対話と相互理解の時代を生きる文学の精神は、このような宗教的実存の普遍の道に光を当てようとする。私の劇詩二篇も、その道を照明する試みだったと思う。
 さらに、これらの作品は人間と自然界の深い関わりを暗示している。
人間の癒しと救済に示される超自然の恩恵の顕現である自然界の恩恵が副主題として、二篇の前場・後場に通底して響き合っていることに読者は気づくであろう。それぞれの場で、豊かな自然環境が人間の身心と生命を支え、自然の恩恵を受けて生の充実が可能になることを暗示している。前の作品の後場では、この問題を掘り下げ、共に病んだ自然界と人間の実相を表現し、両者の癒しと救済のヴィジョンを示したこのように、その主題が明確に語られ、読者はその通り以上のものを、心に深く受け止めるだろう。
「病んだ自然界と人間の実相を表現し、癒しと救済のヴィジョンを示した」

「芸術家と芸術の在り方という問題を新たに提起し」「芸術を求道とする芸術観」を「考察」こう語る守口三郎氏のこの二篇の劇詩は、優れて現代的な詩作品であるという以上に、今、文学が最も表現するべき「主題」を持つ作品であると言えるだろう。
それを日本の歴史的、文化的宝である「能」の「夢幻能」の表現方法を踏まえて、新しい「劇詩」という表現を創造したことにも、現代的な意義がある。

 この「劇詩」という表現形式の大元となっているのは、西洋文学の「詩劇」であるということだ。本書の「あとがき」でも触れられているが、守口氏からいただいた書状(私が本書の感想文をお送りしたとき、丁寧なご返書をいただいたもの)で、次のようにご教授いただいた。恐縮だがその書状の一部を以下に引かせていただく。

 日本の近現代の文学では「劇詩」(詩劇)が一般的ではないようですが、西洋文学では古代ギリシア以来、連綿と続いてきた伝統的形式で、西洋の詩精神を鍛えてきた厳しい形式と思います。
17年前に西洋の古今の作品から13篇を選んで、その病と癒しの精神構造を考察して論じた評論『病と文学』をまとめましたが、13篇の内、5篇が詩劇(紀元前4-5世紀のソポクレスの詩劇と旧約聖書「ヨブ記」の2篇、17世紀英詩人ミルトンの1篇、20世紀仏詩人のクローデルと英詩人のエリオットから各1篇の合計5篇)で、選択は私の好みであるしょうが、詩劇が西洋文学における一大伝統であることを証しています。
 大学在学中からエリオット、イェイツなど近代英詩に親しみ、古代ギリシア悲劇を踏まえたエリオットの詩劇、日本の能の影響を受けたイェイツの詩劇などを読んで、詩劇の形式また能の形式に深い関心を持つようになりました。毎学期のように英文学演習で読まされたシェイクスピアの詩劇からも大きな影響を受けました。

(略 能の舞台をたくさん観られた体験談のくだり)

 日本語で詩劇を書く場合、拠るべき手本は能(とりわけ世阿弥の夢幻能)だけで、元来能が精神的には宗教的起源を持ち、言語形式としては歌謡、和歌を源泉としている点で、能はまさに日本の精神文化の中枢をなす芸術であるとの確信を深めました。


 ちなみに守口氏は九州大学と同大学院、ケンブリッジ大学で英文学の研究に従事された来歴の方である。
 本書に収められたこの二篇は、日本文学と西洋文学の伝統ある古典的表現形式を融合させ、まったく新しい表現形式を創造したものだということができる。
 それは守口氏にしか成し得なかった、文学的偉業と言わなければならない。
 多くの現代韻文作家たちが、自分が立っている文化の基盤から遊離して、国籍不明の作品を乱作している現状を鑑みれば、その試みこそ、今、韻文作家がなすべきことの指標となるだろう。

2017.10.5

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