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行方克巳句集『肥後守』―「季題発想による一行のものがたり」へ

  行方克巳句集『肥後守』―「季題発想による一行のものがたり」へ

深夜叢書社 二〇二四年六月刊

巻末の掲載の著者略歴

 「あとがき」全文

 私にとって俳句とは、「季題発想による一行のものがたり」と考えるようになった。
 ずいぶん前から、「深夜叢書」から句集を出すことを決めていたのだが、齋籐愼爾が亡くなってから出版するとは思ってもみなかった。句集の中に、彼を悼む句があるなんて、なんともさびしい限りである。
 八十路人になった今、この十年で何が出来るだろうかなどと考え込んでしまう。
 いわゆる終活の一として、『行方克巳季寄せ』を作ったが、あとどれほどの存念を残せるか―。
 『肥後守』は、『晩緑』につぐ私の第九句集になる。題名は、

  肥後守蛇の匂ひのこびりつき

からとった。私の裡なる「少年A」の物語である。

    令和六年五月                    行方克巳

      ※

  行方氏は一九四四年のお生れなので、今年ちょうど八十歳、傘寿のお歳を迎えられたことになる。
「あとがき」冒頭の、俳句は「「季題発想による一行のものがたり」と考えるようになった」という述懐はこの傘寿を迎えられた心情を合わせて拝察すれば、これまでの行方氏の俳句に対する姿勢は、季節の移ろいの中での自分の命をじっくり噛みしめるような作句姿勢であるという心情の表明であろう。
 後でも触れるが、それは第八句集『晩緑』の「あとがき」でも触れられていたことだ。しみじみと心に沁みるような句ばかりである。

 句集名の「肥後守」は、「守(かみ)」という語がついているが、地方を治める大名や代官のことではなく、小型ナイフのことだ。折り畳み式でポケットに入るサイズで、私たちの 年代なら、必ずといっていいほど所有していて、さまざまなことに使える万能具だった。

  だから私などは、「肥後守」と聞くと、あの銀色の鞘と 鋭角な刃先、そしてそれを自分で磨いだときの、金臭い匂と共に、少年時代の山遊びなどの数々が脳裡に蘇る。
 その思いをわたしは行方氏と共有していると思う。
 この句集にその名を冠されたのは、ご本人が述べられるとおり、

  私の裡なる「少年A」の物語

であろう。つまり自分の原点めぐりの句集でもある、ということだろうか。

 もうこれ以上の前置き、解説めいた文は無用であろう。
 句集から、私が特に好きな句を揚げて紹介するだけに留める。
 句集は五章立て、章題はⅠからⅤだけの表記である。

 

  

 

  火のつかぬ焼けぼつくひや日向ぼこ

  日向ぼこ地獄見て来し顔ばかり

  

 一句目は大人として自己の少年期を振り返ったときの、苦い記憶の欠片のように感じる。二句目は目を外界に向けるようになった時期の率直な印象だろうか。

 

 

 

 落椿踏む屍の踏み心地

 春昼のしづけさに何憤る

 

   齋藤愼爾死す

 花の雨飲食嫌になりにけり

 

 齋藤愼爾氏は私にとって、評価、励ましを多くいただいた恩義のある方である。そういう尊敬の念を抱いている人も多いはずだ。

 小柄で小食、夜、少々の酒とツマミで生きてきた、と本人の口から聞いたとき、とても驚いた記憶がある。この句はそんな齋藤愼爾氏へのなによりの弔い句だろう。

 

 神の血も肉も饐えたり冴返る

 

  この句はホロコーストを再訪されたときの句の中の一つだという。

  句の頭に「神の」と冠したところに、深い批評精神を感じる句だ。

 

  

 

  考へる蟻とはなまけものの蟻

 

 昨今、現代人は立ち止って熟慮することなく、まるで携帯電話の検索で調べた簡単な情報だけで生きているようになってしまっていることを危惧するのは、行方氏の世代から私たちの世代までだろうか。一日図書館か書斎にこもって読み書きをしている人間は「なまけもの」にしか見えない時代だ。

 

  肥後守蛇の匂ひのこびりつき

 

 句集のタイトルにもなった原句である。生き物を狩ってナイフで処理することも、少年期の遊びの一つだった。よく洗ってもその匂は刃先にこびりついていた。総合してまさに少年期の少し危険な香りでもある。右翼に感化された少年が演説中の党首を刃物で刺し殺してから、文部省通達で小中学校の持ち物検査が厳しくなり、刃物系の物は先生に没収された記憶を呼び起こした句である。

 

  コクリコやひとに遅れてうなづく子

 

 立ち止って熟慮するタイプの子のようだ。作者の自己投影だろうか。私もそういう少年だったので共感する。上五に揺れる雛罌粟の季語を置いたのが憎い。

 

  死がありて死後がありけり金魚玉

 

 現代社会は日常空間から死や穢れを取り除いて、身辺を見かけ上、綺麗で便利な空間にして過ごしている。自分がいつか死ぬ存在であることを忘れるか、遠ざけて生きているように見える。死を見つめない者には死後も見えない。つまり世界の真の姿を見失っているということでもある。生死の総合的なものが共存していた生活圏を喪失した現代人の精神は、どこか危うい。そんなことを考えさせる句だ。

 次の句も同じ視座から詠まれているように感じる句だ。

 

  大方は散るべく咲いて柿の花

 

  夏の惨劇「お前らはみな外来種」

 

 この句は二重に複雑な批判精神を感じる句だ。異文化や外国人を受け知れない頑な姿勢への批判と、生物圏に限って言えば、逆に異風土の生物、外来種の繁茂は生態圏を乱す大変な問題でもある。たとえばたんぽぽなど、道端で見かけるものはもう、ほとんどが外来種になってしまっている。

 

  あめんぼの五体投地の水固き

 

 あめんぼの姿を五体投地のようだと詠んだ俳句に初めて出会い、その独創的な視座に感服した。五体投地とは五体すなわち両手・両膝・額を地面に投げ伏して、仏や高僧などを礼拝することで、仏教において最も丁寧な礼拝方法の一つとされ、対象への絶対的な帰依を表す。作者の敬虔な祈りの思いを感じた句だ。

 

  ゲルニカの馬が嘶き昼寝覚め

 

 大量無差別殺人のようなジェノサイドは、過去の歴史と思っていたのは、つい最近までのことで、その時代は過ぎ去り、世界の各地でまだ繰り返されている。昼寝の、のんびりした雰囲気を急襲する、この不意打ち感に切迫した世相への危機感を感じる句だ。

 

  晩緑やあと十年で片が付く

 

 この句から余生の残り時間のことを感じるのは、七十歳以上の人だろう。普通に長生きした人でも最長九十歳から百歳。と気付いたとき、何もかもが自分にとって「片が付く」ときを迎えるのだとしみじみ自覚する。わたしも七十五歳を超えたので、共感しきりの句である。上五の「晩緑」が憎い。この言葉は、行方氏の第八句集の名でもあり、その「あとがき」で、次のように述べられていた。

     ※

昭和、平成そして令和を迎えた今も、「季題発想」という私の作句信条は変わることはない。
 また、俳句は「何を詠まなければならないのか」ではなく、「何をどう詠めばいいのか」であるという私の気持ちも変わらない。
 この度の句集名は「新緑」に対しての「晩緑」という心である。
 もし、私の作品が人の心に届きにくいとしたら、それは私の表現力が至らぬためである。心して表現力を磨くことに励みたいと思う。

     ※

 この句の余韻を引き擦りつつ、次の句を読むと、余計なことをしている暇など、人生にはもともとないのだよ、という思いが立ち上ってくる。

 

  もう誰のためにでもなく蛍飛ぶ

 

  夏至に吹くガラスことごとく悲の器


 高橋克己の小説『悲の器』を思い出した句だ。戦後の神無き知識人の心理を硬質な文体で暴き出した彼の長編処女作である。この句のガラスの器はすんなり理解できるが「夏至に吹く」が謎だ。夏至は、二十四節気の第十。北半球ではこの日が一年のうちで最も昼(日の出から日没まで)の時間が長い。またじめじめした梅雨の盛りの季節だ。その暑苦しく鬱陶しい天候の元に「悲の器」の、ガラスのように透明で涼やか、とはいかない、命の葛藤が浮かび上る効果がある、と解した。

 

  

 

 新豆腐沈めし水の光かな

 奥の手も逃足もなく蓑虫は

 鳥渡る新宿の目はまばたかず

 

 一句目の昔ながらの素朴な食材を愛でるに、水の煌めきを添える気持ちに共感。
 二句目は無作為の自然の命に寄せる思いに共感。
 三句目、不夜城のごとき都会が、老いとともに鬱陶しく感じられるようになったのかと解した。

 

 Ⅴ

 

クリスマス死者の未読の一行詩

 

 アインシュタインは死ぬのは怖くないが、モーツアルトを聴けなくなるのは悲しいと言ったが、この句は、自分が死者になった後、美しい一行の詩が詠まれるかも知れず、それを読めないのは悲しいと思っているのだと、最初は解した。

 しかし、一行詩のような言葉を遺して逝った「かの人」の思いはまだ読み解かれずにいる、とも解せる句だ。上五に「クリスマス」を冠しているから、「かの人」とはイエス・キリストか、その言葉を人々に告げようとした使徒たちのことかもしれない。

 

 虚にあそび実に迷ひて近松忌

 

 俳句を詠むものは、浄瑠璃作家と同じで、虚を生み出すことを己の性とするが、その虚は作者の実体験のもろもろの思い、迷いから生じたものだ、と解した。
 味わい深い句だ。

 

 鮟鱇の今生憂しと恥(やさ)しとぞ

 老來の企み一つ春を待つ

 

 こういう句で、句集の掉尾を飾ることが出来るのは、まだまだ精神的な余力、活力が残っている証拠ではないか。「恥」しに「やさ」しとルビを振る技も冴えている。

 

 老いの迫る読者の一人として、何か活力を分けていただいたような読後感の句集である。


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