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俳句ーこの民衆短詩型文芸の力 中嶋鬼谷編著『秩父事件 農民軍会計長 井上伝蔵の俳句』をめぐって

 


朔出版 2024年10月刊

俳句ーこの民衆短詩型文芸の力
 中嶋鬼谷編著『秩父事件 農民軍会計長 井上伝蔵の俳句』をめぐって

  中嶋鬼谷氏のライフワークというべき、「井上伝蔵の俳句」とその時代背景と民衆の心のありようを論じた著作の、この最新の著は、俳句作品自身の鑑賞、解説、批評の書である。

 中嶋氏は埼玉県秩父郡小鹿野町出身で、俳句は加藤楸邨に学び、楸邨師逝去後、その「寒雷」退会している。

 句集四冊の他に評論書がある。

 評伝『加藤楸邨』、そして『井上伝蔵―秩父事件と俳句』、『井上伝蔵とその時代』があり、同じ秩父出身の金子兜太から讃辞を贈られている。

 井上伝蔵とは、秩父事件の蜂起に加わり、死刑判決を受けたが、権力側の「縛」に従わず、「恩赦」を受けるまで「国内亡命」をして人生を全うした人物である。

 中嶋鬼谷氏の祖父もこの秩父事件の蜂起に加わり、死刑ではなく罰金刑を受け、その後、苦難の人生を送っている人だ。

 その故郷の家系に連なる身の上のこともあるが、中嶋氏がそれをライフワークとしたのには、秩父事件の指導者の立場にあった井上伝蔵家の家風に、俳句文化があったことに、深く心を動かされたのだろう。

 秩父事件の概略は次の通り。

       ※

秩父地方で、自由民権思想に接していた自由党員らが中心となり、増税や借金苦に喘ぐ農民とともに「困民党(秩父困民党・秩父借金党・負債党)」を組織し、一八八四年(明治十七年)八月には二度の山林集会を開催していた。そこでの決議をもとに、請願活動や高利貸との交渉を行うも不調に終わり、租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を政府に訴えるための蜂起が提案され、大宮郷(埼玉県秩父市)で代々名主を務める家の出身である田代栄助が総理(代表)として推挙された。蜂起の目的は、暴力行為を行わず、高利貸や役所の帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願することであった。

自由党解党二日後の十月三一日、下吉田(旧吉田町)の椋神社において決起集会が行われ、蜂起の目的のほか、役割表や軍律が制定され、蜂起が開始された。翌十一月一日には秩父郡内を制圧して、高利貸や役所の書類を破棄した。

しかし、当時既に開設されていた電信により、いち早く彼らの蜂起とその規模を知った政府は、上野駅から特別列車を仕立てて警察隊・憲兵隊を送り込むが苦戦し、最終的には東京鎮台の鎮台兵を送り郡境を抑えたため、十一月四日に秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧された。

一部の急進派は、長野県南佐久郡北相木村出身の自由党員で、代言人の菊池貫平を筆頭とし、さらに農民を駆り出して十石峠経由で信濃国に進出したが、その一隊も十一月九日には佐久郡東馬流(現小海町の馬流駅付近)で、高崎鎮台兵と警察部隊の攻撃を受け壊滅した。その後、おもだった指導者・参加者は、各地で次々と捕縛された。

事件後、約一万四千名が処罰され、首謀者とされた田代栄助・加藤織平・新井周三郎・高岸善吉・坂本宗作・菊池貫平・井上伝蔵の七名には、死刑判決が下された(ただし、井上・菊池は欠席裁判での判決。井上は北海道に逃走し、一九一八年にそこで死去した。菊池はのち甲府市で逮捕されたが、終身刑に減刑され、一九〇五年出獄し、一九一四年に死去)。 

  フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋要約。

     ※

「逃走し」とあるが、中嶋氏は井手孫六に倣って「国内亡命」と記述している。

 本書の「終章」一の「身代かぎり」で中嶋氏はこう述べている。

     ※

 一九七九年(昭和五十四)四月に、埼玉新聞社から「秩父事件史料」(補巻)が出され、全六巻が完結した。この補巻所載の[裁判言渡原本綴]に祖父の名があった。

 中島多次郎二十一歳十月 下吉田村四百十八番地 平民農 

明治十七年十二月十四日言渡 罰金二円五十銭

「被告人」の陳述などは全く無視した即決の判決である。
 祖父の正確な名は「中嶋太治郎」だが、番地は正しい。判決文には「竹槍ヲ持参シ」とある。
 予想していたことであったが、祖父太治郎は事件に参加していた。祖父の住んでいたのは下吉田村小暮耕地と呼ばれる集落で、史料を見ると集落のすべての家が事件に参加している。(略)

 その太治郎に、井上伝蔵のことを訊ねたならどう答えたであろうか。たぶんこう言ったに違いない。
〈丸井の旦那ともあろうお人が、よくぞわしらと一緒に出てくれたもんでがんす〉
 太治郎などより豊か思想の高みに達し、官兵との戦いで負傷し、捕縛を嫌い自らの喉を突いた新井助三郎の思想は「切腹の思想」ではない。時の権力に裁かれることを拒否する行為である。
 後世の事件研究者は、その農民の死を悲しみ、そうするまでに彼を追いつめた権力をこそ怒るべきで、彼の死の悲壮さを美化してはなるまい。讃えるべきは彼の到達した思想である。およそ美しい死などは無い。死を「散華」などと美化する思想は、先の世界大戦で他国の侵略に国民を駆り立てるためのデマゴギーであった。
 もし仮に、官兵との戦いで倒れた農民が私の祖父であったなら、私の母も、そして私もこの世に存在しなかった。死とは、以後との一切の断絶なのだ。
 伝蔵に[自首、死刑]を、「切腹」を期待する評者は、人の命というものをどう考えているのであろうか。私は、田代栄助、加藤織平、坂本宗作、大野苗吉、高岸善吉、新井周三郎など全ての人々が逃げ延びてほしかったと考えるものである。自由民権運動家の馬場辰猪はアメリカに亡命し、かの地で明治政府の圧政をするどく批判した。
 秩父地方随一の大店欠尾商店の番頭矢尾利兵衛による『矢尾口記』が書き留めているように、民衆を「土芥」の如く見なす権力に、「潔さ」などを示す必要は少しも無かろう。逃亡というかたちで、権力の黒い手によって政かれることを拒否した彼等を、後世の私たちに裁く資格はない。
 井上伝蔵は逃げた。北辺の地に「俳句」というかすかな足跡を残しながら生き続けた。

   ※

 井上伝蔵の心を支えたのが俳句だったのだ。
 中嶋氏はその足跡を訪ねて、秩父はもちろん北海道にも取材に出かけている。
 同書終章の三「ある僧との出逢い」で、続けて次のように述べている。

  ※

 北海道時代の作品の多くは前川道寛著『石狩俳壇誌』によった。前川師には、一九九一年(平成二の初秋に初めてお訪ねして以来、三度お会いし、頁重な資料を拝見した。
 そこで私は、前川師が資料探索の興味を超えて、伝蔵という逃亡者を心から慈しんでおられることを知った。私は一人の人物の足跡を辿ることの意味がそこにあることを教えて頂いた。前川道寛師に最後にお会いしたのは一九九五年の八月末だった。その時、古い句帖に消えぎえに残る伝蔵の句《浴ミして端座を壊し初嵐》を発見した。その折、道寛師は、「久し振りにこんな句を作ってみました」と、次の句を口吟まれた。 

  影曳いて笑顔行き交ふ春の土手   道寛 

 師の温顔の思い出される秀吟である。

  ※

同章四「石狩のコスモポリタニズム」では、次のように述べている。

  ※

 伝蔵自身が俳句の家の出であったこと、石狩の地に尚古社という俳諧結社があったこと、この偶然の結びつきかなかったなら、伝蔵は俳句を作り続けられたであろうか。さらに、名士の仲間入りをして石狩の地で職を得、家庭を築き生活しえたであろうか。
 俳諧の結社とその仲間たちが伝蔵を精神的にも物質的にも支えてくれたのである。石狩に住む人々そのものか他国からやってきた移住者である。そのことが伝蔵のような「流れ者」を受け入れるコスモポリタニズムとも云うべき風土性を作っていたのである。

  ※

 本書の読後、わたしは俳句という文芸のもつ、詩歌としての力の他に、このように苦難の中にある人を、慰め、支え、内側から生かし、そして同好の仲間を繋ぐ場を形成して支援する、大衆文化としての力を感じた。

 過酷なシベリアの「ラーゲリ」抑留体験から生きのびた詩人の石原吉郎は、一時期、俳句も書いている。死と隣り合わせの世界で、検閲から免れる唯一の方法、記憶すること、つまり「頭の中」の句帳に、俳句を書きつけることで生きのびることができたという原体験をしている。その短さゆえにできたことだ。

 戦争体験者の鈴木六林男も同様のことを述べている。
 昭和のジェノサイドである「チッソ・水俣事件」の被害者たちに寄り添い、共に苦しみ行動を共にした石牟礼道子が、最後に辿りついたのも俳句という形式だった。

 石牟礼道子は自分の俳句は死者と自分を慰めてくれるものだった、と言っている。

 中嶋鬼谷氏の、「井上伝蔵の俳句」をめぐる旅は、そんな思いと通底するものであったのだろう。

 本書掉尾に中嶋氏は次の讃句をそっと置いている。
 
   讃 井上伝蔵
   
草莽(そうもう)の志士(しし)として立つ北風(きた)の中   鬼谷謹詠
 

 

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